iPS細胞方式の日本型雇用とそれを支えた女性労働モデル

戦後の高度成長期を支えたのが、日本の社会システム全体と一体化するかたちで確立した日本的雇用システムです。濱口(2021)は、日本の大企業を中心に運用されてきた日本的雇用システムを特徴づけるのが、雇用契約上で職務が特定されず、雇用の本質が職務ではなく会員(メンバー)であるという「メンバーシップ型雇用」であることを確認します。メンバーシップ型雇用のもとでは、どんな仕事をするのか、どんな職務に就くのかは、使用者の命令によって定まるとされています。濱口は、日本企業において、このメンバーシップ型雇用の巧妙な仕組みがどのように機能してきたのかを分かりやすく説明しています。その中で特に今回紹介したいのが、「iPS細胞方式」と呼ばれるメンバーシップ型雇用下の採用と教育の仕組みと、主に男性正社員を対象とするメンバーシップ雇用を支えてきた「女性労働モデル」あるいはオフィスレディー(OL)モデルです。

 

まず、濱口は、伝統的な日本のメンバーシップ型の教育と採用のあり方はiPS細胞方式だといいます。iPS細胞は、今は何でもないけれども何にでもなりうる細胞なので、これをメタファーとして用いることで、未経験で採用時は専門性も何もないが、初任配属や人事異動で配属した部署や職種に適応することでどんな社員にもなることができる人材を採用し、そのような柔軟な能力を涵養するような雇用システムを日本の企業が有してきたことを表現しているわけです。具体的には、職務を定めずメンバーシップを付与するかたちで新卒の未経験者を採用し、その後、無限定社員という形で、労働時間、担当職種・部署、勤務地などを会社のその時々の状況に合わせながら柔軟に与えていくことで、どこに配属しても仕事がこなせるようになるような人材になってもらおうということなのです。

 

そして、iPS細胞方式は日本の社会全体とも密接に連動していたことを濱口は示唆します。例えば、社会全体としてiPS細胞型人材を再生産する仕組みとして、濱口は矢野眞和による「日本型大衆大学・日本型家族・日本型雇用の三位一体システム」を紹介しています。これは、年功序列賃金によって社員の子どもたちが大学生になるころに一番収入が高まるように賃金を設計し(若いときにもらうべき賃金の一部を先送りする)、それによって子供の大学の授業料を親が負担する親負担主義を特徴とする日本型家族制度を支え、18歳で大学に入学し、22歳で卒業した後にすぐに会社に就職するという18歳主義・卒業主義によって新たなiPS細胞型人材を間髪なく次々と社会に投入してきたわけです。いわゆる「つぶしが効く」法学部、経済・商学部、工学部などの人気が高かったのも、大企業に歓迎されるiPS細胞型人材になるために有利だったからでしょう。

 

iPS細胞方式に適しているのは、会社の命令に沿って長時間労働、職種転換、転勤などに文句を言うことなく柔軟に対応できる人材で、日本の社会でそれが可能だったのは主に男性でした。いわゆる「辞令一本でどこにでも行く」ことが、会社が状況に応じて柔軟に労働力を操作しつつ都合のよい人材をつくっていくiPS細胞方式には必要不可欠でしたが、「男は外に仕事に行き、女は家庭を守る」という古い日本の考え方のもとでは、女性がこのような働き方をすることは困難でした。むしろある意味無茶な労働を男性がする代わりに、家事や育児・介護の一切を女性が行うという分業だったのです。そのため、日本型雇用システムでは、オフィス・レディー(OL)に代表される男性とは別の「女性労働モデル」が確立されたのです。これは、日本の伝統的な家庭において女性が男性を支えてきたのと同様に、企業社会においても女性社員が男性社員を支えることを前提とした労働モデルで、高卒や短大卒の女性を女性正社員、すなわち今でいうところの一般職として採用するモデルでした。

 

濱口によれば、OLモデルは新卒採用から結婚退職までの短期的メンバーシップとして位置づけられており、場合によっては、女性正社員は男性正社員の花嫁候補者的存在でもありました。つまり、会社は、長期的メンバーシップを保証する男性正社員に「銃後の憂いなく」24時間働いてもらえるよう、安心して家庭を任せられる女性を結びつけるという機能も果たしてきたと濱口はいうのです。いわゆる社内結婚なのですが、女性正社員の採用基準として「自宅通勤できること」という項目があったように、花嫁修業を家庭でも会社でも行い、結婚退職までは短期的メンバーシップの下で男性正社員を支え、その後は主婦として夫を支えながら夫の長期的メンバーシップのもとで会社とのつながりを持ち続けます。会社は扶養手当などで家族全体を支えるため、女性社員本人は短期的メンバーシップに限定されていたとしても、社内結婚した夫を通じて間接的に長期的メンバーシップ、いわゆる終身雇用の安定性を享受してきたといってもよいのかもしれません。

 

上記のような日本の社会と密接に連動したメンバーシップ雇用、そしてiPS細胞方式のもとで入社したiPS細胞社員も、中高年になるとiPS細胞社員であるがゆえの試練に立たされることになったことを濱口は示唆します。つまり、若くて学習能力も高く、ぴちぴととしていたiPS細胞も、年齢とともに老化し、学習能力も低下し、何にでもなれる能力は確実に落ちていくという事実があります。会社からのさまざまな辞令や配置転換命令に従って仕事をこなしていく中で、首尾よく自分の専門性を身に着け、特定の職務、職種において会社に確実に貢献できるようになれた社員は安泰かもしれませんが、そうでない社員は、iPS細胞型社員としての価値を失っていくなかで「能力不足」という烙印を押されかねないのです。若い頃にもらうはずであった報酬を「先送り」した結果としてもらっている高給も、会社の職能資格制度上は「能力に見合った報酬」ということになっています。しかし、上昇する一方で決して下がらないと仮定された能力給の報酬と、老化に伴う実際の学習能力の低下という事実は矛盾しており、そのような事情もあって中高年社員は社内でお荷物扱いされるなどの苦悩にあえぐことになります。これを濱口は「老化したiPS細胞の悲劇」と表現しています。

参考文献

濱口桂一郎 2021「ジョブ型雇用社会とは何か: 正社員体制の矛盾と転機」(岩波新書 新赤版)

 

日本企業の競争力を支えた戦後日本型循環モデルの成功と劣化

第二次世界大戦後の日本は、戦後復興と高度経済成長という奇跡を謳歌し、その経済成長を支え、高品質な製品で世界の市場も席巻した日本企業の競争力、とりわけ雇用や人的資源管理のあり方は世界からの称賛の眼差しで迎え入れられました。これは、日本全体における若者の教育から就職、そして企業における雇用慣行や人的資源管理といった様々な施策が1つの大きなシステムとして極めて効果的に機能していたことに起因します。 しかし、とりわけバブル崩壊以降、平成30年間の経済低迷期においては、その劣化と機能不全が明らかとなり、現在にいたってもいまだに根本的な問題解決に至っていないのが現状だと言えましょう。

 

日本企業のかつての競争力の源泉が「日本的経営」や「日本的人事管理」といった言葉で語られ分析される際には、企業経営というレベルでみた雇用や人事の仕組みに焦点が当たることが多いかもしれません。しかし、上述のとおり、日本企業の競争力の源泉を真に理解するためには、日本という国家全体において効果的に機能していたシステム全体を独特な社会モデルとして理解することが必要不可欠でしょう。とりわけ、かつては現在ほど様々な分野でのグローバル化が進んでおらず、企業の生産活動の多くが日本国内で行われることでメイド・イン・ジャパン製品を生み出し、かつ雇用面においても国際化が進んでいなかったために、企業活動を支える労働力が日本で育ち日本の教育を受けた人々によって占められていたということも考慮する必要があるでしょう。

 

本田(2019)は、このような独特な日本全体のシステムを「戦後日本型循環モデル」という形で整理し、その成功と劣化、破綻を、政策や社会問題の視点からとらえています。本田によれば、戦後日本型循環モデルは、1960年代を中心とする高度経済成長期に形成され、石油危機後の1970~1980年代の安定成長期に普及と深化を遂げたシステムです。今回は、この戦後日本型循環モデルのポイントを、政策や社会問題的視点には深く立ち入らず、あくまで日本企業が有していた競争力の源泉という視点からとらえてみることにします。

 

戦後日本型循環モデルのもとでは、主に男性が企業の長期雇用と年功賃金により家計を支え、家族は次世代である子供の教育に多額の費用と意欲を注ぎ、教育を修了した子どもは新規学卒一括採用により間断なく企業に包摂されるという循環構造が成立していました。この循環構造によって、人々の生活保障がほぼ全面的に企業の安定雇用と年功的な賃金によって支えられていたため、政府は産業政策によって企業の雇用を維持しておけば、教育および家族への政府支出を極めて低く抑制することが可能だったと本田は指摘しています。

 

この戦後日本型循環システムの重要な構成要素の1つが、新卒学卒一括採用という世界でも特異な「学校から仕事への移行」の慣行です。高校や大学の卒業よりもずっと前に就職活動をして内定を獲得し、卒業後に間隙なく従業員として企業の雇用に包摂されていくこの慣行は、石油危機後に他国で若年失業率が急上昇した際にも失業率を極めて低い水準に保つことを可能にし、有効性の高い慣行として注目を浴びたと本田は解説します。

 

そして、戦後日本型循環モデルに基づく企業の人的資源管理を側面から補強してきたのが非正規雇用です。本田によれば、戦後日本型循環モデルのもとでは、主に男性からなる正規労働者は企業の構成員として包摂され安定雇用と年功的に上昇していく賃金を得る代わりに無限定な貢献の要請を受け入れるという関係にあったわけですが、非正規労働者は主婦や学生など補助的・一時的な収入を目的とする層を対象としており、そのため、短期雇用と低水準の賃金が当然視されていました。これにより、日本の企業は正規労働者のみならず非正規労働者を活用することで、過剰な費用負担を抑えながら経営を維持することができたともいえましょう。

 

しかし、バブル景気の崩壊後は、経済の低迷とバブル期の新卒過剰採用、中高年齢層に達した団塊世代の人件費負担、後発諸国の経済的台頭などの複数の要因によって新規学卒者を正社員として採用する余力が著しく低下したため、正規雇用に参入できない若者を増加させ、「就職氷河期」「ロスト・ジェネレーション」「ニート」などを生み出しました。家計維持者でありながら正規雇用に従事する者が増加したにもかかわらず、正規雇用と非正規雇用との強固な分断線は維持され続けている一方で、正規労働者間でも、長時間労働や低賃金、ハラスメントなどの労働条件の悪化が進んでいると本田は指摘します。

 

参考文献

本田由紀 2019「若者の困難・教育の陥穽」in 吉見俊哉(編)2019「平成史講義」(ちくま新書)

 

高度成長期に「完成」した日本型人事管理モデル

森口(2013)は、いわゆる日本的人事管理モデルは、製造業大企業を中心に、第一次世界大戦から高度経済成長期にかけて、半世紀にわたる労使の攻防と協調の中で次第に形成されてきたのだと説明します。また、その形成過程は、経済合理性に導かれつつも、急速な重工業化や軍事統制、民主化といったその時々の歴史的事件を色濃く反映しているとも指摘します。森口は、日本自適人事管理モデルの形成プロセスを、重工業大経営に萌芽が見られた戦間期(1914-37)、軍事統制の影響を受けた戦中期(1938-45)、労使の激しい攻防に彩られた戦後激動期(1945-55)、生産性向上に結び付いた高度成長前期(1955-65)の4段階にわけて説明しています。


森口によれば、産業化初期すなわち20世紀初頭の日本の大工場では、外部労働市場から経験工が臨時採用され、企業による教育訓練は行われず、職長が個々の職工に臨時仕事を配分し、賃金は一般的技能もしくは出来高で支払われ、頻繁な自発的離職と解雇で雇用期間は短く、労使関係は相互の不信に彩られ、ホワイトカラーとブルーカラー労働者の間には身分制度ともいうべき待遇格差があったと指摘します。つまり、戦間期では日本型人事管理モデルの構成要素はどれひとつとして成立していなかったというわけです。


これが戦間期に入ると、工業化の進展とともに企業規模が拡大し、一部の企業で上級ブルーカラー(エリート職工)を対象とする新規学卒者の定期採用・企業内訓練・内部昇進という人事管理政策が開始されたと森口はいいます。また、軍需による重工業の急拡大で、渡り歩く職工の定着率を高めるため、ホワイトカラーや役付き職工に限定されていた定期昇給や期末賞与、退職手当などのさまざまな勤続奨励策を工員に対しても導入したと指摘します。そして、1930年代後半には、民営大企業を中心に工員の勤勉と継続雇用を奨励する一連の人事管理政策が見られるようになり、一部の大企業では職工の実質賃金と勤続年数の間に相関が観察されるようになりました。ただし、不況期には大量解雇が行われ、経営者と労働者の間には圧倒的な差があり、ホワイトカラーとブルーカラーの待遇格差は依然として大きかったといいます。


戦時体制下においては、官僚の主導により民間企業の労務管理政策に対しても大幅な国家干渉が行われたと森口は述べます。ただし、戦時下の労働統制の多くは、実質的には戦間期の大企業の人事管理政策を踏襲し、それを全国の企業に義務付けるものであったとも述べています。つまり、政府の規制は、民間大企業で行われていた人事政策を標準化し、より広範囲に普及させる役割を果たしたと指摘しているのです。その結果、戦時期には広範囲の企業において、新規学卒者の定期採用が職業紹介所の仲介によって行われ、企業内「養成工制度」が義務化され、賃金に年齢給の要素が加わり、定期昇給が全工員に義務付けられ、転職と解雇は禁止され、産業報国会によって工職混合の組織が導入され、ホワイトカラーとブルーカラー労働者の平等の理念が導入されたといいます。ただし、このような法令は必ずしも実効性を伴わなかったともいいます。


戦後占領期になると、民主化の波を先取りする形で労働者の組織化が進展し、1948年までに大多数の企業で工員組合と職員組合の統合が起こり、工職混合の「従業員組合」が成立していきます。これらの組合の主導で「身分制度」が撤廃され、日本企業におけるブルーカラーとホワイトカラー労働者の一元的な人事管理が実現したと森口は解説します。また、経営者に対して史上初めて攻勢に立った労働者側は、ドッジ政策やGHQの政策転換を機に経営側からの反撃にあいました。そして長期抗争の結果、主要大企業で急進的な組合は従業員の支持を失い、より協調的な第二組合が成立していきます。この組合が合理化への協力を前提に「労使協議制」という情報共有と事前協議のシステムを作り上げ、雇用保証を実現する仕組みを編み出していったといいます。


そして高度成長期には、大企業における人事管理政策が生産性向上を目的とする小集団活動と結びつくことによって日本型人事管理モデルが完成し、その経済合理性が揺るぎないものとして確立したのだと森口は説明します。具体的には、高校進学率の向上に伴い中卒者のみならず高卒者がブルーワーカー労働者として採用されるようになって人的資本の質が向上し、ブルーカラー動労者の高学歴化を契機にホワイトカラーとブルーカラーの昇給体系を完全に一本化する「職能資格制度」が提唱され、給与が職務から切り離されることでより柔軟な職務配置と広範なローテーションによる技能形成が可能となったといいます。こうして、新規学卒者の定期一括採用、体系的な企業内教育訓練、職能資格制度に基づく定期昇給・昇格、少集団活動による労働者参加、定年までの雇用保証、企業別組合と労使協議制、ホワイトカラーとブルーカラー正社員の一言管理といった7つの政策が相互に有機的に結びついた「日本型人事管理モデル」が完成したのです。

学校社会の特徴を色濃く反映する日本企業

日本的な人事や労務慣行は、世界的に見ても特殊な特徴を有しています。例えば、長期安定雇用を前提とする新卒一括採用や、企業内でのジョブ・ローテーション、年功序列的な賃金・昇進、企業内労働組合などが挙げられます。そして、これら日本企業の特徴は、少なくとも高度成長期やバブル崩壊前までは、日本の学校社会の特徴をそのまま引き継いだものとしても理解できたのではないかと思われます。


やや補足的にいうならば、日本企業に色濃く反映されているのは、小中高の学校社会です。日本においては大学はやや特殊な存在で、多くの大卒会社員にとってみれば、大学の4年間(あるいはさらに大学院時代)のみが自由を謳歌できるモラトリアム期間。あとは、小中高および会社への入社後定年までの会社員時代はすべて、学校社会を基本的な設計思想として持つ管理社会で暮らすというイメージだと考えられます。定年を迎えて引退するならば、働かなくても年金を得て、再び自由で悠々自適な生活が待っているというわけです(現在はそうでもなくなってきていますが)。つまり、日本企業で働く会社員としての人生を歩む人にとっては、小学校から始まり、大学時代と定年後を除く人生のほとんどは、いわゆる学校社会をプロトタイプとして規則正しく行動することが求められる管理社会の中で生活するということなのです。


具体的に、どのように学校社会が日本企業の特徴に対応しているかを見ていきましょう。まずは、学年別の教育・管理です。同期入社組は学校社会でいうところの同級生であり、学校社会と同じく、先輩、同期、後輩といった序列は明確に維持されます。これは、○○年入社組とか、○期生といったかたちで会社員生活をずっと引きずります。小中高は6年生とか3年生までですが、会社の場合はこれが10年生とか20年生、30年生まであるということです。


そして、職場の構造や役職関係は、学校の教室、クラス、職員構造に対応します。少し違うのは、教室は同級生だけではなく、先輩も後輩もまざっていることですが、共通しているのは、職場には必ず担任の先生に相当する人がいるということです。多くの会社ではそれは課長です。先生(課長)の言うことをよく聞く生徒(社員)で、成績もよい生徒(社員)は、学級委員(係長やチームリーダー)の役割を与えられます。部長は、いってみれば、学年主任とか教科主任の先生です。社長は校長先生であり、副社長や専務は教頭先生といったところでしょうか。学校社会でもそうであるように、会社の中でも課長や部長に「チクる」社員もいることでしょう。校長先生(社長)に直訴する勇気ある生徒(社員)もいるかもしれません。


そして、生徒数の多い学校になると、毎年、クラス替えがあります。これは会社でいえば定期の人事異動です。いわゆる終身雇用の中、教室(職場)のメンバーの顔ぶれがずっと同じだと息苦しくなるでしょう。とりわけ相性のわるいクラスメートとかがいたり、担任の先生(課長)と馬が合わないとと苦痛です。したがって、きまった間隔で生徒(社員)をシャッフルすることで、リフレッシュを図ります。小中高がそうであるように、多くの生徒は入学から卒業まで同じ学校に留まります。日本の会社もそうで、多くの社員が新卒で入社してから定年近くになるまでずっと一緒に過ごします。ただし、例外もあります。それは、会社でいえば中途入社の社員であり、それは学校社会でいうところの転校生に相当します。


日本企業では、ずっと同じメンバーが同じ釜の飯を食うという職業生活を続けておりお互いの結束力が高いため、学校社会で転校生がクラスに馴染むのに苦労するのと同じで、中途入社の社員は職場に馴染むのに苦労することでしょう。最初は、職場の同僚(同級生)はどこかよそよそしかったりするものです。しかし、いったん、職場の同僚(同級生)から、自分たちの職場の一員だと認めてもらえれば、普通に接することができるようになるでしょう。


学校社会と同じで職場内でも社員同士の結束・団結力が強いので、そこから外れるような行動をしたり批判的な態度をとったりすると問題が生じます。つまりそれは、いわゆる「いじめ」につながる可能性があるということです。学校社会ほどあからさまな「いじめ」は、企業社会ではないかもしれませんが、会社や職場では、もっと陰湿で巧妙な「いじめ」に姿を変えているかもしれませんので注意が必要です。


ただ、学校社会と少し違う特徴としては、企業社会のほうがずっと男性社会だということが挙げられます。学校では、男女はどちらかというと平等だし、女性教師もかなりいます。それに比べ、日本の企業社会では、伝統的に男性社員が優位であり、女性の管理職が少ないのが現状です。したがってこれは、学校の正課の活動よりは、放課後の野球部やサッカー部のような部活動の様子に近いかもしれません。これらの部活ではあくまで主役は男子生徒で、何名かの女子生徒がマネージャーとして参加します。とはいっても、ここでいうマネジャーは管理職というよりは一般職・事務職に近いですが。

1940年体制史観で紐解く日本的人事管理

日本企業の人的資源管理はどのようにして形成され、なぜそれが世界的にも優れた企業競争力の獲得につながったのでしょうか。これに関して、野口(2015)は、「戦後の民主主義改革が経済の復興をもたらし、戦後に誕生した企業が高度成長を実現した」とする通説に反し、「戦時期に作られた国家騒動員体制が戦後経済の復興をもたらし、戦時期に成長した企業が高度成長を実現した」とする「1940年体制史観」を提唱しています。野口によれば、戦時中に確立された体制は、来るべき総力戦に備えた戦争遂行のための経済システムです。これが戦後になって目的が変更され、軍事力ではなく経済力とりわけ生産能力の増強が目的となり、官僚を中心とする戦時体制がそのまま機能した、その体制の中で日本経済をリードした主要企業も、戦時中に再編・形成された企業群だったと指摘します。今回は、この史観から説明されている日本的人事管理について概観してみます。


まず、独特な日本の雇用慣行とも関連している日本の労働組合の特殊性がどのようにして形成されてきたかです。野口によれば、労働組合が産業別かつ企業横断的に組織される欧米とは異なり、戦後の日本の労働組合が企業別になった背景には、第二次世界大戦の戦時中に作られた「産業報国連盟(1938年)」「大日本産業報国会(1940年)」があったことを指摘します。これは、政府主導によって作られたもので、労使の懇談と福利厚生を目的として事業所別に作られ、労使双方が参加した組織です。これにより、労使協調の仕組みが定着すると同時に、それまでの労働組合は戦時中に強制的に解散させられていったと野口は解説します。


つまり、野口によれば、それまで産業別・企業横断的な労働組合を有する欧米型の労使関係は、戦時改革の中で大きく変質し、それが終戦直後の労使対決を経て、高度成長が始まった50年代半ばから、労使協調を特色とする「日本的経営」スタイルに収束していったのです。企業別労働組合は、会社との運命共同体です。この体制のもとで発展した日本企業は、「経営トップから現場の作業員まで、全員が共通の目的のために協力する」という意味では軍隊と同じ性格の組織であるため、会社に強い忠誠心を持って働く日本の従業員を「企業戦士」というのは、比喩以上の意味を持っていると野口は指摘します。


次に、日本の大企業の経営者が内部昇進者が大半を占めることの時代背景です。野口によれば、日本でも戦前では経営トップは大株主の意向で企業外から連れてこられるのが一般的だったそうです。しかし、戦時中、政府は「臨時資金調整法(1937年)」「銀行等資金運用令(1940)」「金融統制団体令(1942年)」等によって金融機関の融資を統制し、軍需産業への融資を優先させるとともに、直接金融から間接金融への転換を進めました。そして、企業に対しては「国家総動員法(1938年)」などに基づき、株主への配当を制限しました。このため株価は低迷し、企業は資金調達を銀行に頼らざるを得なくなりました。


こうした一連の政策により、戦前には高かった直接金融が戦時中に急低下し、間接金融主体となりました。企業に対する大株主の影響が低下し、銀行の発言力が高まったということです。政府は銀行による資金配分を通じて間接的に民間企業を支配するようになったのです。こうして、株主が経営に関与できなくなった副次効果として、経営トップが自らの意思で後継者を選ぶ習慣が定着したというわけです。その結果、大企業の経営者は内部昇進者ばかりになっていったのだと野口は指摘します。


では、このようにして形成された日本的人事がなぜ世界的な競争優位性を獲得し、日本の高度成長に寄与できたのでしょうか。野口によれば、それは日本的人事管理を含む「1940年体制」が、その時期の時代環境にフィットしていたからです。その時の時代環境とは、当時の先端分野が鉄鋼、電機、造船、石油化学などの重化学工業の時代であり、垂直統合型の大企業が高い生産効率を発揮する分野でした。そのため、市場を通じた協働(例えば、水平分業)ではなく、大組織内部での分担と連携を通じる経済活動が中心になったのです。これは、利益の追求より集団への奉仕を重視する1940年体制、日本的人事管理がもっともよく機能する分野だったのです。

日本的人的資源管理「サラリーマン・モデル」はどのように形成されたのか

日本の人事管理は世界的にみても独特な面を持っています。その1つが、「新卒採用」と「終身雇用」がセットになった、いわゆる「サラリーマン・モデル」です。菅原(2014)によれば、このような日本的雇用システムは、学校を卒業すると同時に就職し、1つの会社で長期にわたって勤続勤務するという特徴を持っています。毎年、桜が咲く頃に、大量の若者が学校卒業から間断なく一斉にビジネスの世界に移動していくのです。では、このような制度はいつ成立したのでしょうか。


菅原は、新卒採用と終身雇用に特徴づけられる日本の人事管理は、次の3段階で形成されてきたといいます。1番目が20世紀(明治期)初頭に会社経営を担う上級職員ないしその候補者のみを対象に、新卒採用・終身雇用が成立した制度です。2番目が、両世界大戦間(大正・昭和初期)に、新卒採用・終身雇用の制度が上級職員だけでなく、補助的な管理業務に携わる中下級職員も含めたホワイトカラー社員全員を対象とするものとなったということです。3番目が、戦後に、新卒採用・終身雇用の制度の制度が、ホワイトカラー社員だけでなく、肉体労働に従事するブルーカラー労働者を含めた従業員全体を対象とするようになったということです。つまり、日本的雇用システムの成立の歴史は、その対象が絶えず段階的に下降し、拡大していった歴史だと菅原は説明します。


新卒採用については、もともと、企業が大学との信頼関係を築き、大学で学ぶスキルの内容が高度に専門的で限定的な修了者、特に理工系の修了者を中心に、大学からの斡旋によって継続的かつ安定的に採用することから始まったと菅原は解説します。すなわち、専門的かつ限定的なスキル・タイプの労働力については、企業と学校の制度的な「結びつき」が発生し、学校とのリンケージを制度的基盤として「埋め込まれた労働市場」としての新規学卒者の定期採用が始まったのです。しかし、日本では、新規採用の対象者は両大戦間にホワイトカラー全体へ、そして戦時・戦後の大きな制度変革を経て、高度経済成長の時代には従業員全体へと広まっていったといいます。


菅原の紹介する日立製作所のケースにおいても、1920年代後半以降に新卒採用と終身雇用の制度が同時に定着し、これらが相互補完的に機能するホワイトカラーの人事管理システムが形成されたことが示されています。なお、企業と大学とのリンケージを中核とする制度で行われた「指定校制度」は、高度経済成長の時代に労働力不足が深刻になると、会社訪問のような形で「制度」を飛び越えて企業と学生が直接接触する動きが広がり、1970年前後を境に指定校制度が急速に衰退し、その代わりに「自由応募制度」が普及、定着するようになったといいます。


また、橘川(2014)によれば、主に専門経営者によって経営される大企業での「協調的な労使関係を基盤にして、従業員利益の最大化を目指す経営」としての「日本的経営」も、サラリーマン・モデルの形成に寄与しているといえましょう。小堀(2014)によれば、協調的な労使関係は、戦後の民主化に伴って形成された工職混合型(ホワイトカラーとブルーカラーの同居)の労働組合による急進的な労働運動が1950年代に失敗を重ねる中で、工職混合型の穏健な企業内労働組合の形成によってなされてきました。その中で、ホワイトカラーとブルーカラーの身分格差や待遇格差に対する問題意識が労働組合内で広がり、労使協議の結果として、当時ホワイトカラーのみに適用されていた長期勤続制度がブルーカラーにも適用された、すなわちブルーカラーのホワイトカラー化が起こったと考えられています。


このようにして長期雇用が企業の従業員全体に広まってくると、従業員間に、同一企業に勤続して生産性向上に寄与し続けることで査定を高めようとする競争意識と、ホワイトカラーとブルーカラーの垣根が低まったことで両者が協力して生産性向上に取り組むことが容易になったと小堀は論じます。この競争と協力の過程で、各企業の生産工程で独自の経験・ノウハウや制度が育まれ、企業特殊的な熟練の蓄積が生産性向上につながったのだと言います。職能給に基づく定期昇給は、各従業員の企業特殊熟練の程度を評価すると同時に、競争を長期間持続させることで熟練の向上を喚起する役割を担っていました。なぜなら、各従業員の企業特殊熟練の獲得は、勤続年数、仕事への姿勢、企業への忠誠心に左右されるからです。


その他、サラリーマン・モデルを支える仕組みとして、長期的視点からの経営目標、水平的で柔軟な組織構造、企業内の部門間移動・内部昇進などが挙げられます。橘川は、これらの仕組みが、生産現場においてインクリメンタル(漸進的な)技術革新につながる応用技術の開発という点で大きな成果を挙げたと指摘します。とりわけ、生産技術開発などで成果を上げるためには、研究、設計、生産、営業など各部門が密接なコミュニケーションを保ち、必要な情報が自由に流れることが極めて重要であるが、この点に関して、水平的で柔軟な組織構造や、部門間の人事異動などが重要な役割を果たしたと言えるのでしょう。

明治維新のリーダーシップと柔構造組織

リーダーシップや組織を語る上でしばしば議論になるのは、日本の強みを生かしたリーダーシップや組織とは何かという視点です。確かに、個が強い欧米の「肉食系」のリーダーシップに脚光が当たりがちな反面、日本のリーダーシップや組織が軟弱に見えますが、日本は歴史的にも大きな転換・変革を実現させてきた時代があり、そこには優れたリーダーシップや、それを支える組織が存在していたと思われます。そこで、今回は、幕末維新期の社会変容において見られたリーダーシップや社会構造について論じた板野・大野(2010)を参考にそれを考えて見ましょう。


板野・大野は、歴史的に見ると、日本は数々の外来ショックにうまく対応し、それらを自らの変革と成長のために積極的に利用してきたのだといいます。この過程を2000年ほど経験してきたがゆえの潜在的対応力によって、幕末の欧米からの衝撃から明治維新という偉業を達成したというわけです。つまり、日本社会は、元来持っている特徴を決して捨て去ることなく、外的要素の吸収と内的展開を幾度となく繰り返しながら、累積的かつ重層的な社会構造を作り上げてきたのだというのです。


これによって形成された日本人の精神構造は、たまねぎのような重層構造をなしており、古い要素と新しい要素が柔軟に共存し、状況に応じてその中の異なる部分が表面化してくるものだと板野・大野はいいます。中国と比較してみるとその特徴がより鮮明になります。中国人の精神構造は硬い玉のごとくであり、それを取り替えるためには古い玉を爆破して別の玉に置き換える(これを革命と呼ぶ)というイメージです。日本人は、互いに矛盾を起こしかねない雑多な要素を平気で取り込み、目的に応じて適宜取り出すという芸当ができる。これをよくいえば柔軟性、包容力、プラグマティズムで、悪く言えば、原理の欠如、節操のなさ、雑種性であるというわけです。日本人は情緒や経験は豊富だが論理一貫した思考伝統がない。ある意味いいかげんな生き方だと板野・大野は指摘するのです。


また、板野・大野は、日本社会の変化の特徴は能動的な「翻訳的適応」だと論じます。例えば明治維新では、欧米が主導する国際システムに受動的に組み込まれるのではなく、西洋文明を従来の日本の世界観のなかで読み換えて理解し、既存の制度をずらしながらも維持し、それらに対応してきたといいます。つまり、日本は、外的刺激を自らの成長のために最大限利用するのに長けていたのです。この結果、過去の日本と現在の日本はまったく異なる外見を呈するにもかかわらず、民族的アイデンティティが失われることはなかったというわけです。翻訳的適応過程そのものが日本人の性格の中心部分であるともいえるのでしょう。


明治維新のリーダーシップの特徴は、「柔構造」であると板野・大野はいいます。例えばシンガポール、韓国、台湾のようにトップダウンの「開発独裁」ではなく、1人のカリスマ的なリーダーがいるわけでもありませんでした。むしろ、複数の指導者が合従連携し、複数の国家目標が並存し、かつそれらの優先順位が柔軟に変更され、指導者も柔軟に交替してきたというのです。さらに、指導者の柔構造は国民の柔構造によって支えられていたという説も紹介しています。要するに、柔構造的な指導部が柔構造的な国民を率いるシステムであったというわけです。


このように考えると、ぐにゃぐにゃしていて得体が知れないが、柔であるがゆえに強いというのが日本が長い歴史の中で培ってきた特徴なのかもしれません。