組織やキャリアにおけるアイデンティティ・ワーク

組織行動論やワークキャリア論において近年脚光が当たっている概念が「アイデンティティ・ワーク」です。Caza, Vough, & Puranik (2018)による文献展望によれば、組織場面や職業場面でのアイデンティティ・ワークとは「社会的文脈における集団的、役割的、個人的なアイデンティティ(自分とは何かという意味付け)の形成、修復、維持、強化、更新、または拒絶を目的とした個人の認知的、散漫的、物理的、行動的な活動」というように定義されます。やや分かりにくい定義ですが、要するに、キャリアにおいて、自分とは何かといった「アイデンティティ」を形成したり、修正したり、変更したり、維持・強化したりする活動です。


ではなぜ、近年になってアイデンティティ・ワークが注目されているのでしょうか。まず、「私は何者であるか」というアイデンティティとは人間にとってもっとも基礎的な要素であり、アイデンティティが私たちのキャリアや働きぶりに影響を与えることは明らかだといえます。また、現代のような環境変化が激しい中で、1人の個人がキャリアに関する同じアイデンティティを終身持ち続けることは稀だと考えられます。例えば、かつての日本のように1つの会社に定年まで働き続けるようなイメージは、会社自体が途中で消滅する可能性や個人として転職する可能性などを考えるとすでに崩壊しているといえましょう。むしろ私たちは、職業生活において、主体的に「自分とは何か」というアイデンティティを節目節目で変更したり、社会情勢の変化や働く組織の変化に応じて修正したりすることが求められます。場合によっては、まったく違う自分に生まれ変わる必要が出てくるかもしれません。このような活動を総称して「アイデンティティ・ワーク」として捉えて研究することで、現代社会の文脈における働く人々のアイデンティティに関する理解を学問的見地から深めようとしているのです。


アイデンティティ・ワークにはいくつかのモードがあり、自分の頭の中であれこれ考える「認知モード」、ナラティブ、ストーリー、対話などを通じて行う「散漫的モード」、服装や持ち物、生活環境などの物理的要素を伴う「物理的モード」、そしてアイデンティティに働きかけるために実際に行動にうつす「行動モード」があります。また、ワーク・アイデンティティのタイプとしては、「私は●●社の社員だ」とか「私はエンジニアだ」というように組織や職業と自分とを結びつける「集団的アイデンティティ」、「私は部長だ」「私は企業家だ」といったように役割と自分とを結び地ける「役割的アイデンティティ」、「私は戦略家だ」「私は仲介者だ」といったように自分自身のユニークな特徴や強みなどに基づく「個人アイデンティティ」があります。実際のワーク・アイデンティティは、これらのモードや種類が混在した重層的なものだと理解できます。


さて、Cazaらによると、アイデンティティ・ワーク論においては、複数の理論枠組みを用いて、私たちが、どのようにして(how)、いつ(when)、そしてなぜ(why)、アイデンティティ・ワークを行うのかについて、理論化や実証研究が進められてきました。まず、社会アイティティ理論によれば、私たちは、自分が属する組織、集団、チームなどとどのように自分を結びつけるかという観点からアイデンティティ・ワークを行うと考えられます。所属組織にどっぷりと浸かったアイデンティティもあれば、所属組織とは少し距離を置いたアイデンティティ、あるいはそれに抵抗したアイデンティティの形成もあるでしょう。いつアイデンティティ・ワークが行われるかというと、組織の特徴が変わって、自分のアイデンティティが脅威にさらされたり、所属組織や集団が変わることによってアイデンティティの変更が必要となる場合が考えられます。このようなアイデンティティ・ワークを行う理由は、私たちは常に自分の価値を高めたいと思っており、そのためには、例えば評判のよい組織や職業集団に属していることが重要だからです。また、私たちは何か大きな社会集団に属していたいという所属欲求と同時に、他者とは異なっていたいという欲求もあり、これらの欲求がアイデンティティ・ワークにつながっていくと考えれらます。


次に、批判理論によれば、まず、社会的な通念から、個人が特定の方向性でアイデンティティ・ワークを行うように圧力がかかると考えられます。例えば、「1つの会社に滅私奉公せよ」「辞令一本でどこにでも行きなさい」という社会通念による圧力がかかれば、愛社精神とつよく結びついたアイデンティティを形成し、維持し、強化するような動きになるでしょう。一方、社会的通念は同時に、それへの反発や反抗を生みますから、「会社に頼らず企業家になる」「機会があれば積極的に転職をして専門家になる」といったように、それに抗うようなアイデンティティ・ワークが行われる機会も創出するでしょう。これらのアイデンティティ・ワークは、人々が、社会的通念や特定の圧力によるアイデンティティの強要に抵抗したりする理由があると感じるときにおこると考えられます。そして、その理由は、私たちは、社会的存在であって社会のルールや規範に従うべきであると考える一方で、個性の尊重や自己表現、一貫性などに対する欲求も持ち合わせているからです。


一方、アイデンティティ理論は、対人関係における役割に注目します。よって、私たちは、組織やキャリアにおいて、他者から何を期待されているのかといった役割期待や、例えば、顧客に対応するセールスパーソンでありながら社内では管理職であるなど、複数の文脈で異なる役割がある場合に、それをどう取りまとめたり折り合わせたりするのかといったかたちでアイデンティティ・ワークを行うと考えられます。アイデンティティ理論によれば、例えば社内で昇進したり配置転換があったり、他者からの期待される役割と自分が認識している役割とに齟齬が生じたりした場合にアイデンティティ・ワークが行われることになります。そして、このようなアイデンティティ・ワークが生じる理由は、私たちは、他者が自分をどう見ているのか、何を自分に期待しているのかについて一貫性を維持したいと思っており、それを確認する作業が必要だからだと考えられます。


最後に、ナラティブ・アイデンティティ理論によると、アイデンティティ・ワークは、一種の「自分物語」を作る作業、あるいは「自伝を更新する作業」だと考えられます。私たちのアイデンティティは、今までどのような軌跡をたどってきたのか、そしてこれからどうなっていくのかといった物語(ストーリー)に支えられているのであり、こういったストーリーは、刻々と変化する日々の職業生活において、そのつど、編集、修正、更新などが行われると考えられるのです。とくに、キャリアの節目に差し掛かったときには、大幅なストーリーの再編集、書き直しが必要かもしれません。このようなアイデンティティ・ワークが行われる理由は、私たちは、常に新たな経験を自分の物語、自伝に書き加えることによってストーリーを最新版に更新させていく欲求を持っていること、そのストーリーの一貫性や安定性によって心の平静を保ったり勇気を出したりしたいからだと考えられます。


アイデンティティ・ワークの研究はまだ新しく、今後も活発に行われていくと思われます。アイデンティティ・ワークは、かつての日本のように会社主導で個人のキャリアが左右されるような時代ではなく、自分が主体的に自分のキャリアをデザインしていくことが求められるこれからの時代には、心身の健康を維持しつつ、実りあるキャリアを歩んでいくためには極めて重要な活動だといえます。今後さらにアイデンティティ・ワークの研究成果が蓄積されることで、私たちが有意義な職業人生を送るために有用な知見や洞察が多くもたらされることが期待できます。

参考文献

Caza, B. B., Vough, H., & Puranik, H. (2018). Identity work in organizations and occupations: Definitions, theories, and pathways forward. Journal of Organizational Behavior, 39(7), 889-910.