日本の人事部はどう発展してきたのか

経営のグローバル化など環境が変化する中、日本企業の人事部の存在意義と役割が問われています。とりわけ、終身雇用、年功序列、企業内労働組合のように世界的に見ても特徴的な雇用システムを持つ日本企業が、経営をグローバル化させ、国境をまたぐかたちで人材管理を行っていく際に、人事部はどのような役割を担うべきなのでしょうか。これを考える上で欠かせないのが、日本企業の人事部がどのような経緯で現在のような特徴を備えるようになったのかです。そこで今回は、山下(2008)を参考にしながら、日本の人事部の歴史を簡単に振り返ってみたいと思います。


山下によれば、日本の民間企業に人事部が広まったのは明治末から大正期にかけてです。これは、企業にとって労務管理の効率化や労働運動対策の必要性が高まり、従来の現場任せの職員・職工管理を脱却し、企業内で組織的な労務管理が要請されたためだといいます。この時期の人事部の特徴で、今日の人事部と共通していると思われるものとしては、(1)現場部門に優越した権限が人事部に与えられていたこと、(2)労使関係の安定化を狙って人事部が創設されたこと、(3)分権的に行われていたラインの労務管理の限界や弊害を克服し、新たな制度を導入する中心的な組織として人事部が位置付けられていたことです。


実際に多くの企業で人事部が独立したのは終戦後だと八代は解説します。敗戦直後からの労働運動の激化に伴い、労働組合対策として、従来からあった人事課を人事部に昇格させたり、総務部に属していた労務課を労務部として独立させたりする動きが活発化していきました。


1960年代には人事部は経営層と強く結びつき、企業内で人事部が重要な地位を獲得していきます。その理由は、戦後急速に組織化が進んで労働組合に対応するため、本社人事部に強い労使関係機能が期待されたこと、1950年ごろのレッドパージ以降は、使用者による経営権の回復がすすみ、アメリカ式の近代的労務管理を確立することが、経営権の回復と職場秩序の確立につながると考えられたからだといいます。


また、このように戦前、戦後をとおして人事部に期待された政治的機能が、人事部の情報収集のあり方に大きな影響を与えたと山下は解説します。日本企業の人事部が収集する個人情報は、たんに従業員の職務遂行能力の情報にとどまらず、従業員の政治思想から家族関係や出身に関するものまで、企業が従業員を管理するうえで「意味がある」とされるあらゆる情報だったというのです。


これまで見てきたように、戦後に成立した日本的企業内労使関係は、結果として人事部の社内の地位を高める役割を果たしました。労使関係が安定した1980年代以降になると、人事部の地位や企業の経営企画への関与によって左右されるようになっていったといいます。すなわち、労使関係機能が人事部の地位向上に果たす役割は相対的に弱まり、経営計画のような企業経営の中心的な事項に関わることが、人事部の地位を左右するようになったというわけです。

日本的経営の原型は天皇制にあるのか

日本的経営といっても様々な要素がありますが、その中でもいわゆる「みこし経営」について考えてみましょう。欧米における企業経営がトップダウンなのに対し、日本企業はボトムアップであるといわれることがあります。別の言い方をすれば、日本企業の経営トップにはリーダーシップが欠如しているとか、頼りないとかいう声も聞こえます。日本のとりわけ大企業のトップは平均的にも高齢で、トップにたどり着く前にかなりの重要な仕事をすでにやってきているとの見方もできます。日本の会社では社長に権力が集中しておらず、むしろ会社を動かしているのは社長より下の階層だと考えられるわけです。社長は祭りたてられて神輿に乗っているに過ぎないというわけです。


齋藤(2010)は、ざっくりとした日本の歴史の説明において、日本はナンバー2の国であると言います。権威のトップと実質的なトップが併存し、権威としてのトップはナンバー1だが、実質的なトップはナンバー2の地位にいたということです。日本では「権威」と「権力」が別々に用いられており、ナンバー1は権威はあるが、その権威を利用して権力を行使しているのはナンバー2だというのです。そして、この原型が天皇制にあると示唆しています。


現在までつづく天皇制を基軸とする統治体制を確立するきっかけとなったのは「大化の改新」であると齋藤は指摘します。これを機に実権を握ったのが中臣鎌足であり、それ以降、日本はずっと藤原氏支配下になったといいます。天皇家の子孫のみが天と交わって神と交信することができると考えられたため、天皇は日々たくさんの儀礼や神事で忙しくなり、実務をすることが困難でした。天皇は権威はあっても忙しくて実務ができないわけです。そこで、天皇に代わって実務を行う摂政や関白などの存在が正当化されていったのです。つまり、天皇の権威を利用して実質的な権力を握ったものが日本を支配してきたのです。


ですから、日本の支配層は次々と変わってきたのに、天皇家は権力とは別のところにいて権威のみをもっているがゆえに、滅ぶことなく現在まで存続しているのだと齋藤は説明します。江戸時代で幕府が政治を行っていた時代でさえ、権威の源泉は依然として天皇にあり、天皇が(実質的支配者の)征夷大将軍を任命するというかたちになっていたのです。


日本的経営も、権威と権力がそれぞれ別のところに存在している統治構造になっているといえるかもしれません。形式上、権威はトップ(社長)が常に持っているが、その権威を利用して権力を掌握し、実際に会社を動かしている層、集団や人物がいるということです。


齋藤は、このような統治システムのメリットを挙げつつも、大きな問題点は権力者の責任の所在が曖昧になることだと指摘します。つまり、権力者の正当性を認めさせているのは、権力者とは別のところにいる「権威」なので、権力者はただ「権威の名のもとに」業務を執行しているだけという言い訳が成り立つからです。公式に意思決定するのは自分ではなく、あくまで権威(社長)だというような感じです。そのため、不祥事が起こった場合に、現場や管理者サイドでは「上から命令されたからやったのだ」という言い訳になり、経営トップとしては「自分の知らないところで部下が勝手にやった」という言い訳につながるわけです。

日本的組織・人事の成功要因

過去、日本的経営の3種の神器として「終身雇用」「年功序列」「企業内労働組合」を指摘したのは、ジェームズ・アベグレンでした。しかし、これらのように過去の日本企業の強さを支えた特徴が、機能不全を迎えていることは多くの識者によって指摘されてきました。冨山(2007)は、組織論、人事管理論の観点から、戦後の驚異的な経済成長を支えた日本企業の組織としての強みを、次のように説明しています。


まず、日本企業が1970年代から成功を収めた要因は、全社一丸となって突き進む「ゲマインシャフト組織」を作り上げたからだと指摘します。人々の利害関係で成立する「ゲゼルシャフト組織」の場合、メンバーを誘引する要素は経済的な報酬に頼らざるをえず、これは企業にとっては大きなクスと負担を意味するといいます。組織内の人間関係も契約化するため、社内の取引コスト、情報コストも上昇します。こう見てみると、経済学で組織をとらえる場合、参加者の利害関係対立を前提としたり、金銭的インセンティブに注目したり、組織を契約の束と捕らえたり、取引コストの観点から分析するなど、暗黙的に「ゲゼルシャフト組織」を前提においていることがわかります。


一方、「ゲマインシャフト組織」の場合、組織への帰属意識や貢献が働くインセンティブとなるので、組織へのロイヤルティも高く、長期的な信頼に基づく少ない取引コストや、あうんの呼吸で集団として高い能力が発揮できるという利点を冨山は指摘しています。ゲマインシャフト的な特性はそれこそ日本の深層文化なので、これを否定することは生産的ではないと指摘しています。日本企業の日本らしさとはここにあるのかもしれません。


しかし一方で、冨山は、日本企業の人事管理についても触れ、日本的社会文脈において組織の新陳代謝と世代間のピラミッド構造を維持してきたメカニズムにも言及しています。たとえば、年功序列については、年功と地位、報酬が連動することが基本であるが、これは若い社員が年配の社員よりも人数が多いからこそ維持できる仕組みであり、実際、過去はそうであったために、状況とフィットした合理的な仕組みであったことを示唆しています。


そしてもう1つ年功序列を支えてきたのが、女性社員の「寿退社」だったと指摘しています。女性の意思がどうであるかにかかわらず、かつて女性社員は「寿退社」を代表的なパターンとして、早くに職場を去っていきました。これが結果的に、現場における人材不足を生み、新しい若い人材を迎え入れる仕組みにつながったのだというのです。つまり、組織の女性社員層にかんしていえば、若い社員を短期で回転させるような仕組みができたがっていたために、組織における新陳代謝すなわち人の入れ替わりと、社員の高齢化を回避する仕組みとなっていたのだと考えられるのです。