人材マネジメントの水平分業

ビジネスの世界では、垂直統合と水平分業という言葉があります。垂直統合は、川上から川下までを1つの組織に取り込むことを指し、従来の日本の大手電機メーカーの組織がその代表例です。それに対し、世界的なトレンドとして起こっている水平分業は、それぞれのプレイヤーが自分の強みに特化して、他の機能を他社にゆだねる連携を指します。例えば、半導体業界において設計とブランディングのみに注力するファブレスメーカーと、受託生産のみに特化するファウンドリ企業のような分業です。


実は、この考え方を人材マネジメントに当てはめるならば、水平分業が昔からもっとも進展していたのは日本だと解釈することが可能です。日本企業の人事管理が、ジョブローテーションなどを活用した総合職志向であることはよく知られており、それによって同質的な人材は作られるが、専門職を育成できないという批判もありました。しかし、人材マネジメントに「水平分業」の考え方を応用するならば、日本の企業は、あたかもファブレスメーカーやファウンドリ企業のように、特定の機能に特化し、特定の機能の人材を、規模の経済を活用して大量生産してきたのだといえそうです。


例えば、製造業の企業は、技術力を生かした製品開発と製造に特化し、国内や海外の販路開拓は、専門商社や総合商社が分業していたと解釈しています。つまり、総合商社は、単なる「問屋」「卸売り」「物流」の会社なのではなく、製造業の販売網の開拓という、事業会社にとって重要な機能を請け負っていたわけです。例えば、事業会社が海外進出したい場合、社内にいわゆる「グローバル人材」を抱えていなくても、総合商社の中に海外に果敢に出て行って販路を開拓してくるたくましい人材がたくさんいたため、そこに海外での販路開拓をアウトソースすればよかったのです。


同じことが、事業会社と銀行との関係にも言えます。事業会社には、財務の専門家を置かず、財務の専門家は、銀行によって大量生産されていました。銀行は単なる金貸しではなく、事業会社のファイナンス機能をアウトソースしていたと解釈できます。銀行員が各取引先企業のキャッシュフローをはじめとするファイナンスを監視し、場合によっては、出向や転籍によって銀行員(=財務の専門家)を派遣していました。財務の専門家は、銀行内で大量生産されていたので、その人材を活用すればよかったのです。


マーケティングについても同じことがいえます。事業会社にはマーケターはおらず、実質的にマーケティングを行う部署はありませんでした。その代わり、大手広告代理店が、事業会社のマーケティング機能を受託していました。大手広告代理店は、単に広告を作っているわけではなく、事業会社のマーケティングを「丸ごと」請け負っており、広告の制作はその一部にすぎなかったというわけです。


とはいっても、日本の企業にも、社内に経理部や営業部や宣伝部、物流・購買関係の部署などがあるではないかいう反論もあるでしょう。確かにそうなのですが、そこで働く人々は、その道の専門家というよりは、企業を代表してアウトソース先の銀行、商社、広告代理店などとのお付き合いと調整を行う「インターフェース」としての機能を担っていたというのが本質的な理解ではないでしょうか。会社を代表してアウトソース先との適切な関係を維持するインターフェースであるからこそ、ジョブ・ローテーションを通じて会社の内部のことをよく知るように教育されてきたゼネラリストすなわち総合職が担当していたのではないでしょうか。


このように、総合商社は海外開拓や販路開拓の専門家を大量生産しており、銀行は財務の専門家を大量生産しており、広告代理店はマーケターを大量生産しているといった具合に、それぞれの会社では「総合職」扱いでも、実は専門家が大量生産されており、これらの会社が、製造業など技術・製品開発・生産に特化した事業会社と水平分業することで、規模の経済を生かした人材マネジメント(人材の育成および活用)が行われていたと解釈することが可能です。もちろん、法律の専門家、会計の専門家、システムの専門家など、同様の水平分業もいろいろな機能で行われてきました。


その中で、欧米に比べて水平分業が遅れていた機能があるとすれば、企業戦略の機能でしょう。欧米では、戦略コンサルティング会社が、経営戦略の専門家を大量生産し、事業会社との水平分業を実現させてきたのに対し、日本ではそのような水平分業がながらく生まれませんでした。戦略コンサルティングの業界が成長しだしたのは、そんなに古い時代ではありません。それは、いわゆる「護送船団方式」で成長してきた過去の日本企業にとって、戦略という機能が重要ではなかったからでしょう。別の解釈の仕方をするならば、企業が戦略をアウトソースしていた先は、戦略コンサルティング会社ではなく、経済・産業政策を担う政府や官公庁だったのかもしれません。