iPS細胞方式の日本型雇用とそれを支えた女性労働モデル

戦後の高度成長期を支えたのが、日本の社会システム全体と一体化するかたちで確立した日本的雇用システムです。濱口(2021)は、日本の大企業を中心に運用されてきた日本的雇用システムを特徴づけるのが、雇用契約上で職務が特定されず、雇用の本質が職務ではなく会員(メンバー)であるという「メンバーシップ型雇用」であることを確認します。メンバーシップ型雇用のもとでは、どんな仕事をするのか、どんな職務に就くのかは、使用者の命令によって定まるとされています。濱口は、日本企業において、このメンバーシップ型雇用の巧妙な仕組みがどのように機能してきたのかを分かりやすく説明しています。その中で特に今回紹介したいのが、「iPS細胞方式」と呼ばれるメンバーシップ型雇用下の採用と教育の仕組みと、主に男性正社員を対象とするメンバーシップ雇用を支えてきた「女性労働モデル」あるいはオフィスレディー(OL)モデルです。

 

まず、濱口は、伝統的な日本のメンバーシップ型の教育と採用のあり方はiPS細胞方式だといいます。iPS細胞は、今は何でもないけれども何にでもなりうる細胞なので、これをメタファーとして用いることで、未経験で採用時は専門性も何もないが、初任配属や人事異動で配属した部署や職種に適応することでどんな社員にもなることができる人材を採用し、そのような柔軟な能力を涵養するような雇用システムを日本の企業が有してきたことを表現しているわけです。具体的には、職務を定めずメンバーシップを付与するかたちで新卒の未経験者を採用し、その後、無限定社員という形で、労働時間、担当職種・部署、勤務地などを会社のその時々の状況に合わせながら柔軟に与えていくことで、どこに配属しても仕事がこなせるようになるような人材になってもらおうということなのです。

 

そして、iPS細胞方式は日本の社会全体とも密接に連動していたことを濱口は示唆します。例えば、社会全体としてiPS細胞型人材を再生産する仕組みとして、濱口は矢野眞和による「日本型大衆大学・日本型家族・日本型雇用の三位一体システム」を紹介しています。これは、年功序列賃金によって社員の子どもたちが大学生になるころに一番収入が高まるように賃金を設計し(若いときにもらうべき賃金の一部を先送りする)、それによって子供の大学の授業料を親が負担する親負担主義を特徴とする日本型家族制度を支え、18歳で大学に入学し、22歳で卒業した後にすぐに会社に就職するという18歳主義・卒業主義によって新たなiPS細胞型人材を間髪なく次々と社会に投入してきたわけです。いわゆる「つぶしが効く」法学部、経済・商学部、工学部などの人気が高かったのも、大企業に歓迎されるiPS細胞型人材になるために有利だったからでしょう。

 

iPS細胞方式に適しているのは、会社の命令に沿って長時間労働、職種転換、転勤などに文句を言うことなく柔軟に対応できる人材で、日本の社会でそれが可能だったのは主に男性でした。いわゆる「辞令一本でどこにでも行く」ことが、会社が状況に応じて柔軟に労働力を操作しつつ都合のよい人材をつくっていくiPS細胞方式には必要不可欠でしたが、「男は外に仕事に行き、女は家庭を守る」という古い日本の考え方のもとでは、女性がこのような働き方をすることは困難でした。むしろある意味無茶な労働を男性がする代わりに、家事や育児・介護の一切を女性が行うという分業だったのです。そのため、日本型雇用システムでは、オフィス・レディー(OL)に代表される男性とは別の「女性労働モデル」が確立されたのです。これは、日本の伝統的な家庭において女性が男性を支えてきたのと同様に、企業社会においても女性社員が男性社員を支えることを前提とした労働モデルで、高卒や短大卒の女性を女性正社員、すなわち今でいうところの一般職として採用するモデルでした。

 

濱口によれば、OLモデルは新卒採用から結婚退職までの短期的メンバーシップとして位置づけられており、場合によっては、女性正社員は男性正社員の花嫁候補者的存在でもありました。つまり、会社は、長期的メンバーシップを保証する男性正社員に「銃後の憂いなく」24時間働いてもらえるよう、安心して家庭を任せられる女性を結びつけるという機能も果たしてきたと濱口はいうのです。いわゆる社内結婚なのですが、女性正社員の採用基準として「自宅通勤できること」という項目があったように、花嫁修業を家庭でも会社でも行い、結婚退職までは短期的メンバーシップの下で男性正社員を支え、その後は主婦として夫を支えながら夫の長期的メンバーシップのもとで会社とのつながりを持ち続けます。会社は扶養手当などで家族全体を支えるため、女性社員本人は短期的メンバーシップに限定されていたとしても、社内結婚した夫を通じて間接的に長期的メンバーシップ、いわゆる終身雇用の安定性を享受してきたといってもよいのかもしれません。

 

上記のような日本の社会と密接に連動したメンバーシップ雇用、そしてiPS細胞方式のもとで入社したiPS細胞社員も、中高年になるとiPS細胞社員であるがゆえの試練に立たされることになったことを濱口は示唆します。つまり、若くて学習能力も高く、ぴちぴととしていたiPS細胞も、年齢とともに老化し、学習能力も低下し、何にでもなれる能力は確実に落ちていくという事実があります。会社からのさまざまな辞令や配置転換命令に従って仕事をこなしていく中で、首尾よく自分の専門性を身に着け、特定の職務、職種において会社に確実に貢献できるようになれた社員は安泰かもしれませんが、そうでない社員は、iPS細胞型社員としての価値を失っていくなかで「能力不足」という烙印を押されかねないのです。若い頃にもらうはずであった報酬を「先送り」した結果としてもらっている高給も、会社の職能資格制度上は「能力に見合った報酬」ということになっています。しかし、上昇する一方で決して下がらないと仮定された能力給の報酬と、老化に伴う実際の学習能力の低下という事実は矛盾しており、そのような事情もあって中高年社員は社内でお荷物扱いされるなどの苦悩にあえぐことになります。これを濱口は「老化したiPS細胞の悲劇」と表現しています。

参考文献

濱口桂一郎 2021「ジョブ型雇用社会とは何か: 正社員体制の矛盾と転機」(岩波新書 新赤版)