1940年体制史観で紐解く日本的人事管理

日本企業の人的資源管理はどのようにして形成され、なぜそれが世界的にも優れた企業競争力の獲得につながったのでしょうか。これに関して、野口(2015)は、「戦後の民主主義改革が経済の復興をもたらし、戦後に誕生した企業が高度成長を実現した」とする通説に反し、「戦時期に作られた国家騒動員体制が戦後経済の復興をもたらし、戦時期に成長した企業が高度成長を実現した」とする「1940年体制史観」を提唱しています。野口によれば、戦時中に確立された体制は、来るべき総力戦に備えた戦争遂行のための経済システムです。これが戦後になって目的が変更され、軍事力ではなく経済力とりわけ生産能力の増強が目的となり、官僚を中心とする戦時体制がそのまま機能した、その体制の中で日本経済をリードした主要企業も、戦時中に再編・形成された企業群だったと指摘します。今回は、この史観から説明されている日本的人事管理について概観してみます。


まず、独特な日本の雇用慣行とも関連している日本の労働組合の特殊性がどのようにして形成されてきたかです。野口によれば、労働組合が産業別かつ企業横断的に組織される欧米とは異なり、戦後の日本の労働組合が企業別になった背景には、第二次世界大戦の戦時中に作られた「産業報国連盟(1938年)」「大日本産業報国会(1940年)」があったことを指摘します。これは、政府主導によって作られたもので、労使の懇談と福利厚生を目的として事業所別に作られ、労使双方が参加した組織です。これにより、労使協調の仕組みが定着すると同時に、それまでの労働組合は戦時中に強制的に解散させられていったと野口は解説します。


つまり、野口によれば、それまで産業別・企業横断的な労働組合を有する欧米型の労使関係は、戦時改革の中で大きく変質し、それが終戦直後の労使対決を経て、高度成長が始まった50年代半ばから、労使協調を特色とする「日本的経営」スタイルに収束していったのです。企業別労働組合は、会社との運命共同体です。この体制のもとで発展した日本企業は、「経営トップから現場の作業員まで、全員が共通の目的のために協力する」という意味では軍隊と同じ性格の組織であるため、会社に強い忠誠心を持って働く日本の従業員を「企業戦士」というのは、比喩以上の意味を持っていると野口は指摘します。


次に、日本の大企業の経営者が内部昇進者が大半を占めることの時代背景です。野口によれば、日本でも戦前では経営トップは大株主の意向で企業外から連れてこられるのが一般的だったそうです。しかし、戦時中、政府は「臨時資金調整法(1937年)」「銀行等資金運用令(1940)」「金融統制団体令(1942年)」等によって金融機関の融資を統制し、軍需産業への融資を優先させるとともに、直接金融から間接金融への転換を進めました。そして、企業に対しては「国家総動員法(1938年)」などに基づき、株主への配当を制限しました。このため株価は低迷し、企業は資金調達を銀行に頼らざるを得なくなりました。


こうした一連の政策により、戦前には高かった直接金融が戦時中に急低下し、間接金融主体となりました。企業に対する大株主の影響が低下し、銀行の発言力が高まったということです。政府は銀行による資金配分を通じて間接的に民間企業を支配するようになったのです。こうして、株主が経営に関与できなくなった副次効果として、経営トップが自らの意思で後継者を選ぶ習慣が定着したというわけです。その結果、大企業の経営者は内部昇進者ばかりになっていったのだと野口は指摘します。


では、このようにして形成された日本的人事がなぜ世界的な競争優位性を獲得し、日本の高度成長に寄与できたのでしょうか。野口によれば、それは日本的人事管理を含む「1940年体制」が、その時期の時代環境にフィットしていたからです。その時の時代環境とは、当時の先端分野が鉄鋼、電機、造船、石油化学などの重化学工業の時代であり、垂直統合型の大企業が高い生産効率を発揮する分野でした。そのため、市場を通じた協働(例えば、水平分業)ではなく、大組織内部での分担と連携を通じる経済活動が中心になったのです。これは、利益の追求より集団への奉仕を重視する1940年体制、日本的人事管理がもっともよく機能する分野だったのです。