何故「パーパス経営」が注目されるのか

パーパス経営とは、「私たちの企業はなぜ存在するのか」といった企業の存在意義、すなわち企業の究極的な目的(パーパス)を基軸にする経営だと理解されており、近年注目が集まっているコンセプトです。しかし、企業に存在意義や目的があるのは当たり前のことで、いまさら何故、企業の存在意義やパーパスといったようなコンセプトが大事だというのだろうかと考える方がいるかもしれません。あるいは、単に「目的」を「パーパス」とカタカナで表現しているだけで、耳障りのよい言葉で新規性を演出して流行を生み出そうとしている魂胆なのではないかと考える方もいるかもしれません。つまり、パーパス経営なるものはメディアやコンサルタントなどによって仕組まれた一過性の流行に過ぎないと主張する人もいると思います。

 

確かに、そのような現象はよくあります。例えば、日本の人事の世界でも20年以上前に「能力」をカタカナで言い換えたような「コンピテンシー」という概念が大流行しました。そこから「コンピテンシー・マネジメント」や「コンピテンシー面接」なども流行り「コンピテンシーによる人事革命」とまで言われたりしていました。単に職務遂行能力をコンピテンシーと言い換えて、斬新なマネジメントコンセプトに見せかけているだけではないのかという批判に対して、コンピテンシー擁護論者は、コンピテンシーという概念は職務遂行能力とは似て非なるものであり、コンピテンシーに着目することこそが効果的な人事管理を行う上で重要なのだという論陣を張ったのです。

 

最近でいえば、「ジョブ型雇用」という言葉の流行が挙げられます。現在の人事の世界では口を開けばジョブ型雇用といった状態で、20年前には口を開けば成果主義、口を開けばコンピテンシー、数年前では口を開けばグローバル人材や働き方改革と言っていたのと何ら変わっていないと感じる人も多いでしょう。日本企業はジョブ型雇用に転換する必要があるというような言説は、30年前、40年前であっても、日本企業は終身雇用や年功序列といった日本型人事から脱却しなければならないと言っていたことと本質的には変わらないわけです。その頃は、日本型人事に対する雇用形態を表すときに、職務中心主義とか、職務給とかいう言葉が踊っていましたが、コンセプト的には、職務を「ジョブ」と言い換えることでなんだか革新的な雇用形態のように見せかけているだけなのではないかと考える人もいるでしょう。

 

話がだいぶん脱線してしまいましたが、本題に戻ると、実は「パーパス経営」への注目が示す重要なメッセージは「目的と手段をはき違えるな」ということであり、パーパスという言葉自体が流行語かどうかの議論は脇に置くとして、企業経営という範囲を超えて社会の変革にまで発展するコンセプトなのだということが重要です。例えば、資本主義社会における根強い思想の1つに、企業は株主のものであるから、企業は株主に報いるために利益を出し成長しなければならないという考え方があります。そう考えると、企業の目的や存在意義は、売り上げをあげ、利益率を高め、成長し、株主に報いることということになるかもしれません。しかし「パーパス経営」の視点では、それは「ノー」ということになるのです。あらゆる企業がそのような考え方に走ると、自然を破壊し、社会の不平等を助長し、人類を破滅に向かわせるような事態になりかねないというのです。

 

どういうことかというと、企業が売上を伸ばし、利益を出していくことは「手段」であって「目的」ではないということなのです。資本主義という社会で活動している以上、企業がその存在意義となる究極的な目的を実現するためには、売り上げを高めたり利益を高めることが必須である、すなわち、目的を実現するために必要不可欠な「手段」だということなのです。ですが、手段であるはずの利益追求が目的にすり替わってしまうならば、利益を出すためならば何をしてもよいという発想になってしまいます。その瞬間に、企業の存在価値とか真の目的は視界から消え去り、動物的な人間の強欲のみが前面に出てきます。その結果、環境を破壊したり、特定の人々を苦しめることになったとしても、会社が利益を出し続けていれば良いという行動が蔓延し、地球は社会は破滅の方向に進みます。

 

働く人々の立場から見ても、生活するための食い扶持を稼ぐために仕事をするという側面は否めないにしても、企業の究極の目的が利益を上げることだとするならば、企業利益や株主利益を最大化することを手助けするだけの仕事にやりがいを感じられるでしょうか。企業も、利益を最大化させるために従業員を働かせるわけですから、極端な話、従業員が疲弊しても利益を持続的に生み出せるならば問題ないということになってしまいます。働きがいのある仕事をすることは幸福につながります。そして、働きがいとは、例えば、自分の仕事が人々の役に立っている、社会に貢献している、ありがとうと言ってもらえるといったもののはずです。企業の目的が、良い社会を作ることであったり人々の役に立つということであれば、自分の仕事がその究極の目的と結びついたときに、やりがいを感じることができるのはないでしょうか。

 

企業が売上や利益を高め、株主に報いること。これが手段ではなく目的になってしまう。そうすることで、利益を出せばなんでもありという社会になって、市場が飽和しても無理やりニーズを喚起してモノを売ろうとするから、地球環境や人間社会が破壊されていく。そのような危惧が絵空事ではなく現実と化してしまいそうな状態になっているのが現在の資本主義社会の実態なのではと考えられているわけです。そうではなく、本当に必要なのは、すべての企業には、地球社会をより良きものにしていくために自分たちには何ができるかという意味での存在意義があるはずであり、すべての企業がその究極的な目的を追求するならば、地球社会は善い方向に進んでいくはずだということなのです。ただし、資本主義というシステムを有する社会であるがゆえに、企業が持続的に存在し、成長することで目的を実現させるためには、売り上げや利益が手段として必要不可欠であるということなのです。

 

これはいわゆる「パーソナル・ファイナンス」にも言えることです。日本では兼ねてから貯蓄から投資へという大号令のもとで投資ブームが到来したりしていますが、お金を儲けること、お金を増やすことが人生の目的なのではなく、人生にとって最も重要なことに時間を割くためには、すなわち人生の目的を実現するためには、ある程度の経済的な余裕が重要だから「手段」としてパーソナル・ファイナンスが重要だということなのです。繰り返しますと、資本主義という世の中である以上、企業であれ個人であれ、お金を稼ぐことは目的を実現するための「手段」として必要不可欠な要素だということなのです。

 

これまで話してきた議論は、別に目新しいものとは言えません。ではなぜ、いま「パーパス経営」に焦点が当たるのか。その理由の1つとしては、経営者や経営学者ではなく、資本主義の本丸とも言える投資家サイドが、世界の国家や政府の動きに呼応する形で動き出したことで「黒船」の役割を果たしているからだと考えられます。それが、このまま資本主義の暴走を許したままでは地球や人類が破滅してしまうという危機感からくる、SDGsやESGといった呼びかけです。SDGsもESGも、冒頭で論じたような流行語に過ぎないと考える人もいると思いますが、例えばESG投資などは、地球環境保全やより良い社会の実現に向けた強いパーパスを持った企業を応援することが、長期的に見て得するはずだという発想に基づいていると思われます。

 

仮に、世界全体の企業に投資する全世界インデックスファンドがあると考えるならば、そのインデックスの中にパーパス経営を実践していない企業、すなわち利益重視で地球環境や社会を破壊するような企業が含まれているとするならば、世界全体が将来不健全になっていくのでファンドのパフォーマンスも悪化するはずです。ですので、地球環境や社会を破壊する企業をインデックスから外して資金を提供すること、オーナーとして応援することをストップすれば、それらの企業は支持を失って自然淘汰され、世の中すべてがパーパス経営実践企業になるはずです。このような考えが理にかなっていると信じる投資家が行うのがESG投資なわけであり、この考え方が普及すれば、すべての投資家がESGに着目することになるわけです。

 

これまでの議論をまとめるならば、確かにパーパス経営、ESGなどは流行語に過ぎないかもしれませんが、その背後で起こっている変化というのは不可逆的なものかもしれないということです。そしてそれが、人類の住むこの地球社会をより良いものにしていく方向性で変化しつつあるのではないか、あるいはそうあって欲しいということなのでしょう。