人的資本経営概論(2)

人的資本経営は、実務の世界では「人材を資本と捉えて企業価値の向上につなげる経営手法」だと定義されているようです。例えば、パーソルの調査によると、「近年、大企業を中心に、人材を「資本」と捉えて、採用や育成などの人材施策に投資を行うことで、中長期的な企業価値向上につなげる「人的資本経営」の動きが加速しています」とあります。これまで人的資本経営をやっていなかった企業があるということ自体驚きですが、とにかく、現在は、人的資本経営を「導入」している企業が増えているようです。前回は、この人的資本経営というコンセプトが、アメリカを中心に1990年代から2000年代初頭に次々と発表されたコンセプトが組み合わさって花開いたものであることを指摘しました。今回はその続きとして、人的資本への投資がどのように企業価値向上につながるのかをどう可視化していくか、そしてそれを「人的資本開示」につなげていくという文脈で概説してみます。

 

日本では、人的資本経営ブームの火付け役が、会計学周りであったことがわかっています。人的資本投資や企業価値との結びつきについて、それらを測定したり可視化したりするという面においては、会計学に一日の長があるということでしょう。実は、これと全く同じ現象が、20年以上前のアメリカでも起こっていたのです。すなわち、会計学で提唱された戦略的な測定手法である「バランススコアカード」の考え方を、人的資本経営に応用しようとする動きが2000年初頭に加速したのです。その牽引役となったのが、デイビッド・ウルリッチ、ブライアン・ベッカー、マーク・ヒューセリッド、リチャード・ビーティらによる研究者グループが矢継ぎ早に投入した以下の2冊です。

 

Brian E. Becker, David Ulrich, & Mark A. Huselid. 2001. The HR Scorecard: Linking People, Strategy, and Performance. Harvard Business Review Press

Mark A. Huselid, Brian E. Becker, Richard W. Beatty 2005. The Workforce Scorecard: Managing Human Capital To Execute Strategy. Harvard Business Review Press

 

2冊目は、副題で"Managing Human Capital"と堂々と謳っているので、2005年ごろのアメリカではすでに「人的資本経営」が登場していたことを意味しています。この2つの書籍は、人的資本への投資が企業価値向上につながるプロセスを可視化するための測定手法について、バランススコアカードの考え方を応用した形で解説しています。「HR Scorecard」の方は、人材や人事システムといった要素に焦点が当てられており、それを拡張した「Workforce Scorecard」の方は、職場のカルチャーやリーダーシップなども含めた測定方法を解説しています。惜しむらくは、上記のような人的資本経営の核心に迫る書籍が、日本では全くノーマークで紹介されなかったことです。これらの考え方が日本に輸入されていれば、人的資本経営ブームの発生も10年は早まったことでしょう。だとすると、日経平均株価4万円越えも10年前に実現していたのかもしれません。そして、人的資本投資から企業価値へとつながる測定を最も直接的に解説した本が、以下のジョン・ブルデューとウェイン・カシオによる「人的資本投資:人事による企業の財務価値へのインパクト」という書籍です。

 

John W. Boudreau & Wayne F. Cascio 2008. Investing in People: Financial Impact of Human Resource Initiatives. FT Press

 

こちらの本も残念ながら日本ではノーマークでした。ブルデューもカシオも世界的に見ると著名な研究者であり、実務家にも人気のある著者ですが、日本では無名です。今回紹介した書籍の共通しているテーマは、「人的資本投資を通して企業価値を向上させるような経営をしようと思ったら、そのプロセスが測定され、可視化されていなければならない。測定できなければコントロールできない」というものです。管理会計の考え方に近いことがわかります。しかし、実務家サイドでの本音は「それはまあわかるけど、日々の業務で手一杯だし、それって結構面倒くさいよね」というものだったと思います。というわけで一向に動かなかった人的資本経営ですが、それに喝を入れたのが「人的資本の情報開示の義務化」なのです。それに慌てる企業とそれをビジネスチャンスとみるコンサルタントが、デジタルトランスフォーメーションの波とあい重なって、「経営活動のデジタル化と一緒に進めればいいじゃん」ということで手を結んだのが今回のブームだと言えましょう。

 

最後に、人的資本の情報開示について1つ指摘しておきましょう。それは、人的資本情報はむやみやたらに公開しない方が良いということです。本当に企業価値を高める人的資本経営は、その企業が考え抜いて編み出した独自のノウハウであるはずです。そんなノウハウを外部に公開してしまったら、他社に真似をされてしまい、競争優位性を失い、その結果企業価値を毀損してしまいます。ものづくり企業はやたらめったら自社の工場の内部(生産工程など)を外部に公開しません。企業見学で見れるのは当たり障りのない場所のみで、肝心のノウハウに当たる部分は門外不出です。ですので、人的資本の情報開示は慎重に行いましょう。企業価値の源泉は、持続的競争優位性であり、持続的競争優位性とは、他社が真似できない価値あるリソースやノウハウを保有していることです。よって、ほんとうに企業価値を高めるノウハウを含んだ人的資本情報は企業秘密にするべきで、それを公開した瞬間に企業価値が下がってしまう。ですから、企業価値を生み出す仕組みとは関係のない、例えばコンプライアンス的な理由で他社と横並びで行なっている施策のような形式的な情報を公開しておけば、企業価値を損なうことはないということです。