報酬・昇進・評価の人事経済学1ー人材の努力が引き出されることで企業利益が最大化するメカニズム

これまでの人事経済学シリーズでは、働く個人も、人材を雇用する企業も、損得勘定に基づいて利益を最大化するように行動するという前提のもとで、どのような募集・採用選考、教育投資、人材維持・放出政策をとることが双方にとってハッピーな結果をもたらすのかについて考えてきました。今回は、同じ理論的前提に立ったうえで、企業がどのような報酬・昇進・評価の仕組みをとりいれると、従業員の努力を最大限に引き出すことができるのか、よってそれによって企業の利益が最大化していくのかについて考えてみたいと思います。例によって、ラジアー&ギブス(2017)を参考にします。


これまでの募集・採用選考、教育投資、人材維持・放出政策などに関する議論では、人材が将来にわたって企業に対して経済価値をもたらす人的資本を有していることを前提に、将来生み出す経済価値を現在に割り引いた現在価値という概念が多く使われてきました。しかし、暗黙の前提になっていたのが、人材が予定通り経済価値を生み出すということ。ですが実際には、企業で働く従業員が企業利益を高めるための努力をしないかぎり、想定される経済価値は実現しません。むしろ、企業がより多くの努力を従業員から引き出すことができれば、彼らが生み出す経済価値も増大します。これに深くかかわるのが、報酬・昇進・評価で、これらの仕組みを通じて従業員の努力を最大化することが、企業にとって利益を最大化することにつながります。


この際に重要となるコンセプトが「インセンティブ」です。インセンティブとは、企業が求める方向で従業員から努力を引き出すための手段を指します。これを指向する経済学的アプローチが「インセンティブ設計」と呼ばれる分野で、最も関連する経済理論が「エージェンシー理論」です。エージェンシー理論は、もともと利害関係が一致しないプリンシパル依頼人)とエージェント(代理人)の関係に焦点をあて、お互いが損得勘定のみで行動しても、お互いの利益が最大化するような仕組みを考える理論です。具体的にいえば、企業(依頼人)に雇用されて(依頼されて)企業の代理人として働く従業員(エージェント)が、あくまで自分の損得勘定のみに基づいて行動しても、結果的に企業(代理人)が得をするにはどうすればよいかということです。


エージェンシー理論に基づくインセンティブ設計のポイントは、従業員は、追加的な努力によって得られる追加的な利益(メリット)が、追加的な努力によって生じる追加的なコスト(負担)を上回る限りにおいて、努力を増やし続けるという点です。例えば、1つ生産すれば千円稼げるといったようなもっとも単純な歩合制を考えてみます。働き始めは、1つ生産するための努力はたいした負担ではないので、それで千円稼げるのが得だと考えるならば、どんどんと生産しつづけるでしょう。しかしこれが永続するわけでないことは自明です。従業員の時間や体力は限られており、どこかで疲労がたまったり時間がなくなったりして、さらに1個生産するための努力が千円では割に合わない(追加努力の追加利益が追加コストを下回る)という状態に行きつきます。そこで従業員は働くのをストップします。これが歩合制というインセンティブが一定期間に生み出した努力の総量ということになります。


ここで重要になってくるのが、従業員が損得を判断する基準である、追加努力と追加利益との関係をきちんと確立できるかどうかという点で、これは人事でいうところの評価制度に深く関連します。先ほどの単純な歩合制であれば、従業員にとっての追加努力と追加利益の関係は客観的で明確です。しかし、コミッションのような売り上げを基準とする歩合制の場合、追加努力が100%追加的な売り上げにつながるわけではないので、追加努力が100%報酬を通じた利益につながるわけでもありません。つまり、追加努力と追加利益の関係がやや不明瞭です。さらにいえば、多くのホワイトカラーのように、努力と成果の関係が見えにくく、人事評価がその人の報酬に影響を与える場合には、追加努力と追加利益との関係がさらに不明瞭です。企業から見てもっと深刻なのは、いくら従業員が努力を積み重ねても、それが会社の利益につながらない場合です。それなのに追加的な報酬を従業員の努力に対して支払いつづければ、企業はいずれ倒産してしまうでしょう。


理想的なのは、従業員の追加努力が企業の追加利益に直結し、そこから追加報酬を企業が従業員に支払うという関係が確立されていることですが、現実にはこれはあり得ません。必ずノイズ(誤差)が入ってしまうからです。1つ目のノイズは、従業員の努力が企業の利益につながるように企業が経営されていないことで、これは事業経営や経営戦略自体に問題がある場合や、企業利益につながるような努力の仕方を従業員に明確に示していないことなどが含まれます。これらによって、企業利益の観点から従業員が無駄な努力をすることになってしまいます。2つ目のノイズは、従業員の努力を正確に測定できないことで、評価制度が不適切であったり、そもそも努力の測定が難しいケースが含まれます。後者に関していえば、工場での労働のような肉体労働は追加努力が目に見えやすいですが、クリエイターのような頭脳労働は追加努力が目に見えにくい点が例として挙げられます。また、売り上げなどの成果を測定指標にして評価をするならば、本人の努力とは無関係な運や環境要因が誤差として混ざってしまいます。


上記のように、企業が従業員の追加努力と追加利益を明確に結びつけるための評価制度に限界がある場合には、なんらかの対策を打たなければ、従業員から必要な努力を引き出して企業利益を高めることができなくなってしまうばかりか、企業を離職して別の会社に転職する可能性(そのほうが本人にとって得だから)を高めます。考えられる1つ目の対策は、事業運営や経営戦略のあり方や評価制度を改善して、従業員の追加努力と追加利益との関係を明確にすることです。評価制度を改善しても、原理的に問題が解決しない場合、それは、従業員から見ると、追加努力が追加利益に結び付かないというリスクを負わせることになります。従業員がこのリスクにさらされたままであれば、追加努力をしなくなったり他社に転職してしまったりしますので、企業としては何らかの保険のようなものでそのリスクをカバーするか、リスクがあったとしても従業員が追加努力を続けるほど強いインセンティブ(より多くの追加報酬)を与える必要があります。


前者については、企業が歩合給や成果給に加え、固定給を支払うというもので、固定給がある意味リスクに対する保険の役割を果たしています。追加努力が追加利益につながらなくても、それを補うある程度の利益を保証するというものです。この場合、追加努力を引き出すインセンティブの度合いは弱くするかわりに、従業員が他の企業に転職してしまうことを防ぎ、企業にとどまって求められる努力をしつづけることで雇用され続けるほうが、努力を怠ることで解雇されるよりも得であるという状態を作り出します。後者については、追加努力に対して支払う追加報酬の割合を高めることで強いインセンティブを設計し、追加努力の一部が報酬に反映されないことのリスクを吸収したうえで、総合的に見て、追加努力をすることが得となるように報酬を設計することになります。