企業合併における移行的アイデンティティ理論

近年、M&A(企業の合併および買収)が盛んになり、企業に勤める従業員にとっては、自分の働いている企業が他者と合併し、新たな企業に生まれ変わるという事態も珍しくなくなりました。自働く人にとっては誰であってもその可能性が考えられるような社会になったということです。


企業には「自分たちはどのような組織なのか」という「組織アイデンティティ」があり、組織アイデンティティが、従業員や企業の行動に影響を与えます。従業員にとっても「自分はどういった会社に勤めているのか」というアイデンティティは、自分はいったい何者なのかといった定義や人生の意味づけをする意味でも重要です。しかし、他の企業との合併によって新しい企業になるというプロセスにおいては、いやがおうでもこの組織アイデンティティの変化が求められます。


Clarkら(2010)は、丹念な事例分析に基づいて、合併時の組織アイデンティティの変化についてのモデルを構築しました。そのモデルにおいて、新たな組織アイデンティティの確立を推進するコア概念として提唱されているのが「移行的アイデンティティ」です。


合併における統合プロセスにおいては、それぞれの企業において従来の組織アイデンティティが不安定化し、組織アイデンティティの変化に対する抵抗と、組織アイデンティティの変化への推進力の両方が拮抗し、葛藤を起こします。そのプロセスで立ちあらわれるのが移行的アイデンティティで、これからこの会社がどういった方向にむかっていくのかを中心とする、移行的、中間的な組織アイデンティティです。合併後に確立される組織アイデンティティではなく、あくまで移行期における組織アイデンティティなのですが、これができあがることが、合併後の統合に向けて重要になってくるとClarkらは考えました。


移行的アイデンティティは、合併した組織がどういった方向に進むのかにかんして、適度な曖昧性を保持しており、いくつかの解釈が成り立ちます。したがって、解釈の自由度があるために、過去の組織アイデンティティを捨て去ってしまってまったく異なる組織アイデンティティに変わってしまうのではないかという抵抗感を和らげます。また、移行的アイデンティティは、今後の方向性に関して曖昧すぎることはないので、将来の不確実性に対する不安や恐れといったものを引き起こすことも回避しています。そういういみで、移行的組織アイデンティティが醸成されることで、企業合併に伴う組織アイデンティティの変化プロセスを促進し、新たな組織アイデンティティに向けて重要な役割を担うと考えられるのです。

文献

Clark, Gioia, Ketchen, Thomas Transitional identity as a facilitator of organizational identity change during a merger. Administrative Science Quarterly, 55, 397-438.