ライバル企業に移籍した社員の心理と行動をアイスホッケーのデータで理解する

企業は人で成り立っています。企業にとって人材は命であり、企業競争力を大きく左右するのも人材です。しかし、企業はすべての人材を新卒採用から内部で育てていくわけにはいかず、優秀な人材を外部から引き抜くという手段も取らざるを得ません。とりわけ、ライバル企業からスター社員などの優秀な人材を引き抜くことの効用については、ヒューマン・キャピタルやソーシャル・キャピタルの理論からも議論されてきました。例えば、ライバル企業から優秀な人材を引き抜くことは、その人材が持つ新たな知識やスキル(ヒューマン・キャピタル)を獲得することができると同時に、ライバル企業から、その知識やスキルを消滅させることになります。また、その人材が持っている人脈(ソーシャル・キャピタル)も同時にライバル企業から奪うことができます。よって、ライバル企業から優秀な人材を引き抜くことで、自社の競争力を高めると同時に、ライバル企業の競争力を弱めると考えることができると考えられるわけです。


しかし、上記のようなヒューマン・キャピタルやソーシャル・キャピタルの理論では、実際にライバル企業に移籍した人材が、どのような心理状態となり、どのような行動に出るのかについての説明がありません。確かに、上記の理論からは、ライバル企業への人材の移動で、企業競争力の源泉となる知識・スキルや人脈も移動することは分かるのですが、それが企業競争力につながるためには、本人が進んで移籍先企業に貢献しようとする意欲が必要不可欠です。しかし、アイデンティティやアイデンティフィケーションの理論によると、ライバル企業に移籍した社員の心理や行動はそう単純ではありません。何故ならば、通常、とりわけ優秀な社員であるならば前職でもそれなりの厚遇を得ていたはずですし、前職の企業にも愛着があると思われるからです。よって、ビジネス上の直接対決が避けられないライバル企業同士の場合、本当にその社員が、心理的かつ行動的に、ライバル企業ではなく自社の味方になってくれるかというところが重要です。


Grohsjean, Kober, & Zucchini (2016)は、このような問題意識に立ったうえで、アイデンティティおよびアイデンティフィケーションの理論に基づいた論考を行い、導きだされた予想を、アメリカのナショナル・アイスホッケー・リーグ(NHL)が公開している膨大な試合データを用いることで解明しようとしました。アイスホッケーに限らず、プロスポーツでは、選手がライバルチームに移籍するということは良く起こります。かつ、プロスポーツの場合、選手情報や試合結果などの詳細な各種データが蓄積されており、それらが公開されていることが多いです。よって、プロスポーツのデータを活用することは、本テーマのように、ライバル企業に移籍した社員がどのような心理状態に陥り、どのような行動をするのかを知るための研究をするのにうってつけだといえるのです。


さて、Grohsjeanらは、アイデンティティ理論で展開されている「集合的アイデンティティ」と「関係的アイデンティティ」の違いに着目することによって、以下のような原理を導き出しました。集合的アイデンティティあるいはアイデンティフィケーションは、自分自身を集団や組織の一部として位置付けるような同一化もしくは同一化プロセスを指します。例えば、「私は〇〇社の社員である」というような認識であって、集団や組織への愛着、帰属意識を表します。集合的アイデンティティの概念を用いると、ライバル企業に移籍した社員の場合、前職の企業と移籍先の企業との両方に同一化することは、とりわけそれらの企業がライバル同士で直接対決がある場合には困難となります。ライバル企業同士でなければ、過去に所属した企業、現職の企業ともに愛着および帰属意識を持つことは可能でしょう。しかし、今働いている会社は、ライバル企業の成功を阻止し、ライバル企業に打ち勝つ必要があります。そうなると、社員の心理としては、移籍先の企業の一員として早く集合的アイデンティティを確立し、過去の企業に対するアイデンティティを解消する必要性に迫られます。それを可能にするためには、社員は、過去に在籍した企業に対してよりライバル心、敵対心を抱き、それ基づいた行動をするとGrohsjeanらは予想しました。


一方、関係的アイデンティティあるいはアイデンティフィケーションは、自分自身を、人間関係の一部として位置付けるような同一化もしくは同一化プロセスを指します。集団や組織といった集合的なものは含まれません。例えば、過去に所属していた企業内では、同僚同士としての人間関係が存在します。このような人間関係は、ライバル企業に移籍した後でも、同僚関係から、元同僚との関係へと形を変えて継続することが可能です。とりわけ、一緒に働く中で同僚が友人となり、切っても切れない絆が形成されるならば、それはライバル企業に移った後でも維持することが可能です。ライバル企業同士の集合的アイデンティティが、「両者並び立たず」という状況にあるので、社員は現職、前職のどちらかを選ばざるをえず、その結果として、過去の企業へのアイデンティティを解消する必要があるのですが、人間関係を中心とするアイデンティティの場合は、「両者並び立たず」ということにはなりません。前職の元同僚との人間関係として、友人関係のようなものを維持させればよいですし、そうすることのメリットも多くあります。そのため、Grohsjeanらは、社員は過去に在籍した同僚に対しては敵対心を抱かず、相手に対する競争的な行為には及ばないと予想しました。


さて、問題は、上記のような予想が本当に正しいかを実証的に示すことなのですが、Grohsjeanらが着目したのはアイスホッケー・リーグでした。アイスホッケーはスポーツの中でもかなり攻撃性の高いスポーツで、ゲーム中に相手選手に対して攻撃的なアクションを仕掛ける「チェック」という行為があります。しかも、公式試合でのチェックは子細に記録されます。Grohsjeanらは、NHLが所有している試合データから、他チームから移籍してきた選手が、どのチームのどの選手にチェックをかけたのかを統計的に分析しました。その結果、予想と整合する結果が得られたのです。例えば、他チームから移籍してきた選手は、自分が過去に所属していたチームと対戦していたときほど、そうでないチームと対戦していたときよりも、多くのチェック行為を行っていることが分かりました。しかし、そのような選手は、自分が過去に所属していたチームメートの選手に対しては、そうでな選手よりもチェックを行うことがありませんでした。


Grohsjeanらは、NHLのデータの分析を通じて、ライバルチームに移籍した選手は、過去に所属していたチームに対する集合的アイデンティティをいち早く解消していること、他方では、過去に所属していたチームメートとの関係的アイデンティティはそのまま維持していることを支持する結果を得たことになります。この研究結果は、企業経営にいくつかの示唆をもたらします。まず、社員は、会社に対するアイデンティティと人間関係に対するアイデンティティを分けて考えており、とりわけライバル企業に移籍した場合には、両者のアイデンティティに対する心理的、行動的な対応を使い分けていることが示唆されます。よって、例えば、ライバル企業に自社の重要な人材を引き抜かれる恐れがある場合には、その社員の社内人脈を充実させるように企業がサポートすることはよい効果をもたらしそうです。なぜならば、引き抜かれた社員は、自社に対してライバル心は抱いても、元同僚に対してはライバル心を抱かないため、実害が少なくなるからです。また、ライバル企業化から人材を引き抜こうとする企業は、チーム全体として引き抜くなど、人間関係も含めてまること移籍させるような手段を用いるならば、移籍してきた社員が心置きなくライバル企業の成功を阻止し、自社の味方になってくれる可能性が高いことも示唆されます。

参考文献

Grohsjean, T., Kober, P., & Zucchini, L. (2016). Coming back to Edmonton: Competing with former employers and colleagues. Academy of Management Journal, 59(2), 394-413.