人事組織に対する経済学的アプローチはほんとうに役に立つのか

経営学の分野でもとりわけ生身の人間を扱う組織行動論や人的資源管理論は、ベースとして心理学や社会心理学を用いる研究が支配的です。より人間関係に焦点を当てた社会学的アプローチも見られます。その理由としては、心理学や社会心理学は、人間の認知、感情、行動などの理解をメインの対象としており、人間行動の深い理解なくしては人材のマネジメントは難しいと考えられるからです。一方、従来から、戦略論などのマクロな経営学では、経済学的アプローチが多く用いられていますし、労働市場を扱う労働経済学は、経済学の守備範囲の1つです。ところが、経済学的なアプローチで、人事管理や組織を理解しようとする、人事経済学(personnel economics)というアプローチも存在します。今回は、経済学的アプローチで人事管理を理解することはほんとうに役立つのかについて、Kreps (2019)やラジアーとギブス (2017)を参考に考えてみたいと思います。


そもそも、経済学的アプローチとは何なのでしょうか。私見ですが、物事を経済学というレンズで見るということは、少しクセのある見方をするように思います。それは役に立つ立たないという意味ではなく、経済学的思考というのは1つの一貫しておりかつ確立されたものの見方・考え方だということです。ラジアーは、「経済学は環境が行動に与える影響を探究する学問である」という言い方で簡潔に経済学の本質を指摘しています。行動というのは、個人行動であったり企業行動であったりするわけですが、そういった行動が環境によってどう影響を受けるのか、ということです。環境が行動に与える影響を研究することが、経済学的アプローチの1つ目の大きな特徴です。


経済学的アプローチの2つ目の大きな特徴は、Krepsが指摘するように、モデル化を志向するということです。モデルというのは、実際には複雑で分かりにくい世界とか興味関心の対象について、それを理解しやすくするために、もっとも本質的な部分にのみ絞って単純化したものを指します。そこで経済学は、環境が行動に与える様子をモデル化するために、とりわけ人間の行動を以下のように単純化します。それは「人間による行動には必ず目的がある。人間は、その目的を実現するために、もっとも効率的に行動する(選択する)」というものです。これが、目的合理性もしくは合理性と呼ばれる経済学の前提で、経済人モデルという言い方もされます。


合理性という人間行動に関するこの大胆な仮定が経済学の大きな特徴で、心理学や社会学などとは大きく異なる点です。一般的に考えれば、現実の世界において人間の行動がすべて目的合理的であると割り切ってしまうのには違和感が生じることでしょう。心理学や社会学は、より現実に即した人間理解や理論構築を目指すので、このようなアプローチはとりません。しかし、経済学は、先ほど述べたように、世界を単純化して理解するモデル化を志向するので、人間にとってもっとも本質的だと思えるもののみに焦点を絞り、後は捨象するというアプローチをとるのです。これがとりわけ人事管理や組織の理解において私たちにとって本当に役立つ知識を生み出すのかどうかは後で議論しましょう。


経済学的アプローチの3つ目の大きな特徴は、こちらもKrepsが指摘しているのですが、経済学が行うことは、記述と評価であり、さらにそれに基づいた処方や提言であるということです。経済学は、まず、特定の環境(制度、仕組み、その他の制約条件)の中で、目的合理的な行動主体(人間や組織など)が、いかなる行動をとるのか、その行動によって何が起こるのかということを「記述」します。そして、それらの記述が、望ましいものなのかどうかを「評価」します。そして、その結果、前提としている制度や仕組みなどを改善するための「処方や提言」を行います。


以上のような経済学的アプローチの特徴を念頭に置いて、冒頭でも発した疑問である「人事や組織への経済的アプローチはほんとうに役に立つのか」について考えてみましょう。まず、経済学的アプローチは、制約条件の中で目的をもった行動主体がどう行動するのかをモデル化するということでした。例えば、私たちのほとんどは、幸せになりたいと思っていますね。単純化して、幸せになるためには、お金と時間の両方が欲しいとします。しかし、お金を稼ぐために働きすぎると、今度は人生を楽しむための時間が減る。余暇の時間を増やしすぎると、その時間を楽しむだけのお金が稼げない。このように、多くの物事にはトレードオフがあります。また、特定の職業に就きたいけれども、その職業に就ける人数は限られており、自分の能力にも限界があるといったように、様々な制約条件があります。経済学においては、人間は、このようなさまざまなトレードオフや制約条件(環境)にさらされながらも、当初の目的(ここでいえば幸福度を最大化すること)にもっとも近づくようなかたちで行動すると考えるわけです。


そこで、このような環境と行動との関係を念頭におきながら企業の人事管理を考えてみます。経済学的アプローチで考えるのは、人事管理の仕組み(職務設計、採用、育成、賃金、評価など)によって、人間はどのように行動するのか(例、求職者はどのように就職活動するのか、従業員はどのように働くのか)。そして、その結果として企業は目的(例、利益の最大化)をどの程度実現できるのかということです。例えば、私たちは就職するにあたって、最小のコストで最大の効果(もっとも収入が高い仕事に就く)が得られるように行動するとしましょう。そして、ある企業が人材を採用するにあたって、高額の報酬を提示する代わりに弁護士や会計士などの資格を採用の条件とするとしましょう。そうすると、いくら高い報酬が欲しくても、資格を取ることのコストに見合わない人は応募しません。よって、応募してくる人は、能力が高い人ばかり(資格が取りやすい)になるでしょう。能力が高い人を採用できれば、高額な報酬を支払っても、それ以上の利益を会社は期待できるかもしれません。このように考えるが、経済学的アプローチです。


このように、人事管理の経済学的アプローチでは、どのような採用の仕組みにすると、どのような人が応募してくるのか、その結果、企業の採用の効果や利益はどうなるのか、あるいは、どのような賃金制度を設計すると、働く人々が仕事に注ぐ努力はどうなるのかといったように、人事管理の仕組みがどのように働く人の行動や企業利益に影響を与えるのかというメカニズムを理解し、さらに、採用の仕組みや賃金制度を変更すると、行動や利益がどう変わるのかを、モデルによって記述しようとします。そして、そうした記述が、本来の望ましい姿(もっとも有能な人材を採用する、企業業績を最大化する)と比べてどうなのか評価しようとします。そのような分析を通して、人材採用の効果や企業業績を改善するための人事管理の仕組みを提案しようとするわけです。


これまで説明したとおり、経済学的アプローチで人事管理や組織を分析するということは、人間の行動やその他の仕組みを単純化したモデルを用いた記述や評価を行うということなので、そうしたモデルの振る舞いというのは、現実とピタリと一致するわけではありません。むしろ、現実では起こりえないような極端な振る舞いさえも示すものだといえます。そういう意味では、経済学的アプローチの記述は、現実離れしています。机上の空論と言われてしまうかもしれません。しかし、現実離れしている=役立たないということではありません。例えば、ニュートン力学を考えてみましょう。ニュートン力学で記述される落下は、落ち葉が落下する様子とかなり異なります。それは当たり前のことで、力学では、風のような空気抵抗など落下に影響を与える様々な要素を捨象してしまい、重力による働きという効果のみに絞って記述しているからです。だからといってニュートン力学が役に立たないとはいえません。むしろ逆で、そのように抽象化してモデル化したからこそ、本質を理解することが可能となり、落ち葉のみならずさまざまな物体の落下の理解に応用できているわけです。


上記で述べたように、人事や組織への経済学的アプローチは、敢えて現実離れのように見えることを承知で極端な単純化や抽象化を行うことで、本質だけ取り出して人事管理や組織という制度や仕組みの働きに関するメカニズムの「本質」を理解しようとしているものだといえましょう。人間の行動などを極端に単純化したモデルを作成して、制度や仕組みが行動に与える影響について現実にはありえない動きでさえも試してみることで、人事管理や組織にかんする様々な制度や仕組みに内在しているメカニズムを理解するのに役立つ知識を得ることができます。そこから、人事管理の改善の方法などの示唆を導き出すことができる可能性がある。それが、経済学的アプローチの特徴であり魅力であると言えましょう。


このように考えると、人事や組織の経済学的アプローチの長所や役に立つ分野が明確になってきました。それは、採用、育成、賃金、評価といった、企業が人材を動かして利益を生み出すための「制度」とか「仕組み」の本質的なメカニズムや効果性を理解するのに役立つ分野だということです。いっぽう、制度とか仕組みに頼らず、いわゆる「ソフトスキル」で人を動かそうとする組織行動論の分野、例えば、リーダーシップや組織文化といった分野に活用するにはあまり向いていないともいえましょう。ソフトスキルによるマネジメントの場合は、制度や仕組みの評価というよりも、人間行動そのものの変容やコントロールを目的とするようなアプローチが多く、その場合は、人間が非合理的な行動をとること(例えば、感情的に行動する)も考慮して実践することが有効であり必要不可欠であるからです。


そして、さらに大切なことは、現実の世界における人事管理などの制度や仕組みは、創業の時代からなんとなく行われてきたことが制度化されたものとか、法律や規制の対応で変えたり追加せざるを得なかったものとか、歴史の積み重ねで定着してきたものが多いといえます。実務家にとってみれば、それらが本当に効果があるのか、その評価の方法さえも分からないままなんとなく実施されてきたものも多々あるということです。実務家にとってみれば普段はあまり深く考えずに当たり前のものとして扱っている制度や仕組みを、経済学的なレンズを眺めて分析することで、それらの制度や仕組みに内在する経済学的ロジックが明らかになり、その効果性が明らかになる。それは、意識していなかったが実は非常に経済性がある仕組みであるのかもしれないし、逆に、経済性の視点からは不効率であって理想形との比較において改善の余地が大いにある仕組みなのかもしれない。そのことによって、より論理的な形での制度設計や制度改革が可能になる。このような形で活用できるならば、人事や組織の経済学的アプローチは大いに役立つ学問であるといえるでしょう。