教育投資と人材維持の人事経済学2―人材価値の含み損状態を切り抜ける

前回のエントリーでは、企業と人材とが共同で企業特殊的人的資本に投資し、それが成功して企業が持続的競争優位性を獲得し、それにより他社を上回る利益を上げ続けることができれば、企業も従業員も得をし、従業員は企業に留まり続けることを示しました。これは、人的資本投資によって人材価値(現在価値)が高まったということを意味しています。しかし、人材価値は、経済環境の変化などによって増加したり減少したりもします。増加するのならば良いのですが、問題は減少です。例えば、リーマンショックや新型コロナ危機などのショックによって需要が落ち込んだり構造的な変化が生じると、企業の有している人材の現在価値が減少してしまいます。つまり、人材を使って生み出す経済価値が小さくなってしまうのです。そうなると、人的資本投資によっていったんは含み益となった人材価値も、一転して含み損になってしまうことさえあるのです。


ここで考えなければならないのは、すべての人材の価値が含み損になるわけではないとするならば、含み損に陥ってしまった従業員をどうするかです。合理的に考えるのならば、何らかの形で企業がそれらの従業員に退職してもらうようにすれば、含み損は解消します。その方法は様々で、会社都合のリストラという手段もあれば、自主退職を促すという手段もあります。今回は、人材価値の含み損に対して、企業の利益が最大限守られるようにするためにどうすべきかについて、そして、自主退職を促す場合には、企業も従業員もハッピーになるシナリオとはどんなものか、いつものとおりラジアー&ギブス(2017)を参考に考えてみたいと思います。


ではまず、経済環境などが悪化することによって、どのような人材層が含み損になってしまうのかを考えてみましょう。前提として、企業が従業員を採用した瞬間は、その人材価値には含み益も含み損もないとします。つまり、企業は、その従業員が将来生み出す経済価値と同等の報酬を将来支払い続けると仮定します。つまり、その従業員が生み出していく収益の現在価値と、企業が従業員に支払っていく報酬の現在価値が等しいということで、企業は時価で労働力を労働市場から購入したわけです。そして、企業が人的資本、とりわけ企業特殊的人的資本への投資に成功すれば、投資額を上回る将来利益の上昇が見込まれるので、人材に含み益が生じることになります。そして、何らかのビジネスショックによって、その含み益が減少、消失または含み損に転落してしまいます。ここで明確なのは、採用したばかりの人材はまだ人的資本投資が始まっていないので、ビジネスショックによって即座に含み損に転落してしまうということです。つまり、人的資本投資が始まっていない、あるいは始まって間もない人材は含み損が生じやすいということです。次に、勤続年数が長くて退職間際の人材も含み損になりやすいと言えます。別の言い方をすれば、これらの人材はすでに企業が人的資本投資を回収し終わっている人材であるため、価値としては含み益が十分に「益出し」されて時価に戻った人材に等しいわけです。


上記のロジックから、ビジネスショックで含み損になりやすいのは、採用直後および退職間際の人材なので、企業の合理的な選択としては、まずはこれらの人材層の放出を検討するということになります。もし、企業が人員数を維持したいのであれば、企業はその人材をいったん労働市場に放出し、同時に時価で本人を再雇用するかもしくは別の人材を採用することで、含み損を解消することができます。つまり、含み損がある人材の報酬水準を下げることで対応するということになります。人員数を維持する必要がないのであれば、リストラをするか退職を促すということになります。


次に、会社都合でのリストラをするのが困難な場合に、含み損となっている人材に自主的な退職を促す方法について考えてみましょう。これは、企業が追加コストを支払わずして行うことは困難です。ですので、早期退職制度のようなものを用いて、自主退職する従業員に追加の退職手当を支払うという方法が考えられます。この早期退職制度を設計する際のポイントは、それをもらって自主退職する従業員がハッピーになると同時に、企業が含み損を、最小限の形で「損切り」することでハッピーになるということです。その最適解は、以下のような計算で求まります。従業員側からすれば、現在企業に留まって働いているのは、それが一番得だからです。例えば、勤続年数が長い従業員の場合、ある程度の家計の貯えができていて、退職しても良いかもしれません。しかし、それでも企業に留まって働くほうが得だと思っています。では、あとどれくらい追加で退職手当を支払えば、退職してリタイア生活をするほうが得だと思うのでしょうか。別のケースでいえば、その人が退職して別の職場で仕事を見つけた場合、損をするので転職しないといえます。では、あとどれくらい追加で退職手当を支払えば、転職したほうが得になるでしょうか。これが考えるべき1つの計算式になります。


企業側に対する問いは、いくらまでであれば、退職手当を支払って退職してもらうほうが、企業に居残ってしまうよりは得なのかということです。つまり、自主退職してもらうということは、企業が追加費用を負担することで「損切り」するわけですから、「損切り」の金額が、含み損の金額を下回っていればよいわけです。なぜならば、含み損はそのままであればいずれ損失として実現してしまうからです。この損切額が、自主退職に伴う追加手当ということになります。よって、従業員から見て、退職したほうが得をする金額で、かつ、企業から見て損切りしたほうが得である金額。これが、早期退職制度で設定する追加の退職手当ということになるわけです。このような金額を設定すれば、含み損を抱える人材に関しては、従業員も企業もハッピーとなる自主退職が成立するのです。