パーパスなき求心力・忠誠心を武器にしていた日本企業

近年、流行が広がりつつある「パーパス経営」。これは、社会における企業の究極の存在価値を基軸に経営を進めていこうとする思想ですが、これはもともとはジョブ型雇用を前提とする欧米企業のためにつくられた、極めて合理的な発想に基づいているといえます。つまり、欧米における企業は、その存在意義・目的を実現するために必要なジョブが集まったシステムだと考えられるのであり、企業のパーパスに共感した人材が、その中の1つのジョブ(ポジション)を担当することで、目的に実現に向けた一翼を担うということだからです。つまり、企業のパーパスが明確であれば、その実現に向けたジョブやタスクのコーディネートが容易になり、その実現に情熱を注ぐ人材を獲得し、活用できるということなのです。従業員から見れば、企業のパーパスに共感し、それゆえにそれを実現するためにその会社で働き、担当する職務に注力しているというところがポイントです。パーパスを基点にして経営を進めていくことが理路整然と説明可能なのが欧米企業の仕組みなのです。

 

一方、日本企業の場合は、戦後の高度成長期において、パーパスを基点としてジョブや社員を束ねるというような合理的な考え方に基づいた経営をしなくても、組織の求心力や社員の忠誠心を獲得する仕組みを作り上げたことで世界を席巻することができたのだと考えられます。なぜならば、戦後の日本が作り上げた企業すなわち「会社」は、運命共同体であって大家族のようなものであったからです。これは、いわゆる「メンバーシップ雇用」と「終身雇用」という日本に特殊な雇用形態からも明らかです。メンバーシップ雇用の意味合いは、運命共同体もしくは大家族の一員となることが、入社するという意味であり、いったん入社して会社という共同体の一員になれば、よっぽどのことがないかぎり追い出されることがないというものです。入社や入社後に職務を限定しない理由は、運命共同体のメンバーが、あるいは大家族のみんなが、お互いに助け合って働くことで、一族を繁栄させることを目的とするためです。

 

つまり、日本企業の場合は、運命共同体で大家族的な会社の発展を最優先させるために忠誠心をもって滅私奉公する社員を獲得できるような仕組みが確立していたわけです。少し考えるとわかりますが、一般的には、家族のような集団にパーパス(存在意義)は必要ありません。なぜ家族が存在しているかといえば、そうすることで生きながらえることができるからで、家族のパーパスは何かと問われれば、一族子孫が繁栄することだと言えましょう。もちろん、崇高な家訓をもった格式高い家族もあるでしょうが、一般的にはそうではありません。家族がさらに集まった農村や集落でも、運命共同体であることは変わりませんから、みなで力を合わせ、協力しあい、役割分担しながら農村や集落の維持と発展を支えることが最優先です。日本の会社はそのような運命共同体の代替でもあったので、辞令一本でいろんなところに行き、部署や担当職務が変わってもそれに没頭し、会社が苦しいときには歯を食いしばって乗り切ろうとする、忠誠心の高い社員を有する競争力のある組織になれたわけです。

 

企業の存在意義といったようなパーパスを意識しなくて求心力・忠誠心を武器にすることができた日本企業は、戦後のアメリカに追いつけ追い越せといったように国をあげた目標が明確であった時代、良いものを安くといったようにやることが明確であった場合には物凄い威力を発揮できました。モーレツ社員が滅私奉公で働きまくる日本企業の経営は、そもそも企業が運命共同体的ではない欧米企業に真似できるはずもなく、脅威以外の何物でもなかったでしょう。しかし、過去のようなクリアな国家戦略や目標がなくなった現代において、各企業が自社の存在意義であるパーパスを意識した経営が必要だと叫ばれるようになってきていることは周知のとおりです。しかし、日本企業の特徴を考えた場合、経営におけるパーパスの役割について、欧米企業と日本企業ではロジックの順序が逆になってしまい兼ねないところには注意が必要です。どういうことかというと、欧米のパーパス経営のロジックが「社会から必要とされる存在意義を果たすことで会社が発展できる」と考えるのに対し、日本企業のロジックは「会社が発展していくために、社会が必要とするものを提供していこう」と考えがちな点です。

 

なぜならば、運命共同体では、その共同体が存続し繁栄することが何よりも優先されるからです。運命共同体的なロジックに従うならば、社会が必要する究極の存在意義があるから企業が存在するのではなく、社員やその家族がお互いに助け合いながら生活していくために必要だから会社が存在するのです。ですから、日本企業の多くは、社員が働く目的が、会社の発展と、それに伴う家族の幸せというように、会社と家族がつながり、会社が社員の家族の面倒も(間接的に)見るという責任感も芽生えてきました。ですから、パーパスなどを意識しなくても、社員は当たり前のように忠誠心をもって会社に尽くすことが可能で、会社の発展のためであるならば何でもやってやろうとさえ思えたことでしょう。ですから、会社が繁栄できるのであれば、パーパスなどは脇においていろんな事業に手を出すことも起こりうるわけですし、時代の変化に応じて賢く業態を変えながら、アメーバのようにしぶとく生き残るということも可能なのでしょう。

 

欧米の企業には、日本のように会社を運命共同体とか大家族のイメージで捉えることは基本的にはありません。ですから、日本のようにパーパスなき求心力や従業員からの忠誠心など望めるはずもなく、企業で働く従業員の間でパーパスが意識されていなければバラバラになってしまう危険性があるわけです。伝統的には、特にアメリカ企業においては、社員を束ね、求心力を維持するために利用されてきたのは、資本の論理に従った株主価値の最大化と、それとリンクした報酬体系でした。つまり、企業が株主価値の最大化に資する利益を挙げられるかどうかがポイントであり、その利益に貢献できる人材が職務給や成果主義の形で報酬を受け取るというものでした。良かれ悪かれ企業と社員は金銭もしくは経済的交換関係で結びついており、CFOを筆頭としたファイナンスの機能がいかに重要だったかがわかります。しかし、環境破壊や不平等社会などにつながる資本主義の限界や株主至上主義への懐疑が、企業の究極の存在価値に立ち返ろうとするパーパス経営への回帰を招いたわけです。

 

では、日本企業は、これからもパーパスなき求心力・忠誠心を武器とした経営をしていけばよいのでしょうか。おそらくそうはいきません。まず、日本の会社というものが、戦争で荒廃した農村共同体や、仕事を求めて都会に流れ込んできた若者に変わって共同体を提供するという役割を果たしていたことから派生していることを忘れてはなりません。当時は時代からの要請や人々のニーズがあったからこそなのですが、もはや時代は変わり、今の人々が同じようなニーズやメンタリティを持っているわけではありません。また、グローバル化の進展や、ダイバーシティインクルージョンの重要性はますます高まっており、日本の会社であっても、同じ時代背景を共有しない多様なバックグラウンドの人々を包摂していかなければ会社は業務を行っていくことはできないでしょう。ですからこれからは、メンバーシップ雇用や終身雇用に映し出されているような運命共同体としての会社、大家族としての会社はだんだんと衰退し、日本特有のというよりは、世界である程度共通性をもった、あるいは標準化された、働き方や組織のあり方が求められていくのだと思われます。