論語から学ぶ日本的組織経営

日本の組織経営は世界から見てもユニークな点が多くあります。そして、それが戦後の日本の高度成長を支えてきたともいえるし、その後の失われた30年といった低空飛行の原因となっているともいえましょう。それに関して守屋(2020)は、日本においては、論語をはじめとする儒教が、日本の人々の無意識の価値観に影響を与えていると指摘します。それは、日本の教育や産業界の実践が儒教の影響を受けているので、そこで育った人々は必然的に儒教的な価値観を当たり前だと思うようになるからです。守屋が著書において詳細に説明する儒教的な日本の無意識の価値観は以下の10項目に集約可能です。

  1. 年齢や年次による上下や序列のある関係や組織を当たり前だと思う
  2. 生まれつきの能力に差はない、努力やそれを支える精神力で差はつく
  3. 性善説で人や物事を考える
  4. 秩序やルールは自分たちで作るものというより、上から与えられるもの
  5. 社長らしさ、課長らしさ、学生らしさ、先生らしさ、裁判官らしさなど、与えられた役割に即した「らしさ」や「分(役割分担と責任)」を果たすのが何よりいいこと
  6. ホンネとタテマエを使い分けるのを当たり前と思う
  7. 理想の組織を「家族」との類推で考えやすい
  8. 組織や集団内で、下の立場の「義務」や「努力」が強調されやすい
  9. 教育の基本は「人格教育」
  10. 男尊女卑

まず、上記の10項目がどのように日本の教育に影響を与えてきたかを見てみましょう。守屋がしているように対応させて説明するならば、日本の教育では、①年次による先輩・後輩関係が当たり前、②できないのは努力が足りないからだと考える指導(努力・精神主義)、③子供は基本的にいい子というタテマエ(性善説)、④学校が一方的に決めた校則をとにかく生徒は守らされる、⑤学生らしさ、先生らしさ、校長らしさなどが求められる、⑥生徒の個性化はタテマエで、集団指導に頼る、⑦先生がお父さん・お母さんで、生徒が子供たち、⑧現場の教員に対する過剰な負担の押し付けを当然視する、⑨日本の学校教育は「徳育」を担うことが大きな柱、⑩女性管理職、特に女性校長の比率の低さ、となります。さらに、教育の大前提として、②の努力・精神主義に加え、⑪集団の帰属重視、集団の教育力を活かす、⑫「気持ちを考える」ことこそ人格教育の基本、という価値観があることを守屋は指摘します。

 

そして、日本の教育を受けた人々が学校を卒業すると同時に間髪入れず入社する会社という組織、大きく言えば日本の産業界においても、上記に挙げた10+2の項目に対応する形で儒教的な価値観を整理することができると守屋は言います。それが以下の13項目です。

  1. 年功序列(①上下や序列関係が当たり前)
  2. 社員は全員、社長ないしは役員候補(②生まれつきの差はない)
  3. 残業や異動を断らないのが出世の基本(②努力・精神主義
  4. 不祥事の温床となるチェックの甘い体制(③性善説
  5. 社員がどう働くかは、基本的に会社が決める(④受け身の秩序・ルール)
  6. 社長らしさ、課長らしさ、新人らしさが求められる(⑤らしさと分のしばり)
  7. 会議でホンネを言わず、飲み会でこぼす(⑥ホンネとタテマエ)
  8. 社長がお父さんで、社員が子供たち(⑦家族主義)
  9. アルバイトや契約社員にまで過剰な責任と労働(⑧下の義務偏重)
  10. 仕事は修行の場で、人は仕事で磨かれる(⑨人格教育)
  11. 男女の賃金・待遇差別(⑩男尊女卑)
  12. 職場やチームのなかで、新人は育まれる(⑪集団指導)
  13. 空気を読んだり、忖度のうまい人間が出世しやすい(⑫気持ち主義)

そもそも儒教は、「秩序の維持や安定」を実現するために政治利用されてきた思想でもあります。ですから、「序列を重んじる」「親や上司、先輩のいうことを聞く」「空気には逆らわない」といった価値観の縛りが強まれば、「そのまま何もせず流されるのが最適な行動」となることを守屋は指摘します。そこに家族主義的な要素である濃密な人間関係、助け合い、育み合いが入ってくると、組織内の結びつきや人間関係を深める一方で、身内の悪事や失態、時代遅れの事項への処理のしずらさを生んでしまうというのです。また、企業が流行に乗じて経営理念やパーパス、ダイバーシティを高らかに謳ったとしても、それはあくまでタテマエであり、ホンネでは過去の誰かから与えられたものとしての古いやり方や慣習を変えられず、なんとなく維持しつづけているというようなことになるわけです。

 

例えば、守屋によれば、アメリカの社会では、「個」が重視されるがあまり、人々は「自分は何者なのか」というアイデンティティを常に考えなければなりません。ですから、会社の理念やパーパスが重要で、それと照らし合わせることで、自分のアイデンティティと整合性があって納得して働くことができる会社を見つけます。それが実現するまで何度か転職することも容認されます。一方、日本では、与えられた環境や組織に適応することが重視されるので、会社の理念やパーパスが掲げられていても、それはお飾りに過ぎないと守屋は言います。「自分は何者なのか」ということを考えない者同士がなんとなく結びついて「和」や「同」を作り、次々と上から与えられる役割や地位を果たしていきながら、定年までなだれ込むというのが、最近までの日本企業の姿だったというわけです。

 

そして、理想の組織を家族との類推で考えやすい儒教では、組織や集団を長期にわたって維持していくために、親が子を持ち、その子が親になり、また子を持ち、その子も親になって、、、という家族関係と対応する形で、組織においても、上司が部下を持ち、その部下がやがて上司になって部下を持ち、その部下も、、、といった連鎖を内部でうまく成り立たせることで、前の世代から伝えられてきた良き制度や文化、しきたりを、未来の世代へとうまく受け渡していくことが安定した秩序維持の基盤だと考えます。これが、受け渡しの順番や育む/育まれる関係としての「序列や上下関係」、自分の子や部下、後輩を、過去の遺産を引き継ぐ人材に育てていくという「伝統に価値を置く姿勢」につながっているというのです。日本の会社において、先輩は後輩をOJTを通して育てていくのが当たり前という風土はそこからきています。部下や後輩を育てることで上司や先輩も育つので、お互いに育み合いながら組織としての総合力を高めていくというのが日本の組織の強さでもあったことを守屋は示唆するのです。

 

では、上記のような特徴は日本の社会や会社にだけ当てはまることなのでしょうか。お隣の中国や韓国ではどうなのでしょうか。これについては、古代の思想としての論語を受け継いだ儒教の価値観は、日本のみならず儒教文化圏といわれる中国や韓国にも共有されているものもあるわけですが、こうした価値観自体の有無や比重の置き方、そこからの発展のさせ方、他の思想との関係(日本でいえば神道や仏教)、地理や風土の影響などを受けて、日中韓の違いは生まれてきたと守屋は指摘します。

文献

守屋淳 2020「『論語』がわかれば日本がわかる」(ちくま新書)

 

パーパスなき求心力・忠誠心を武器にしていた日本企業

近年、流行が広がりつつある「パーパス経営」。これは、社会における企業の究極の存在価値を基軸に経営を進めていこうとする思想ですが、これはもともとはジョブ型雇用を前提とする欧米企業のためにつくられた、極めて合理的な発想に基づいているといえます。つまり、欧米における企業は、その存在意義・目的を実現するために必要なジョブが集まったシステムだと考えられるのであり、企業のパーパスに共感した人材が、その中の1つのジョブ(ポジション)を担当することで、目的に実現に向けた一翼を担うということだからです。つまり、企業のパーパスが明確であれば、その実現に向けたジョブやタスクのコーディネートが容易になり、その実現に情熱を注ぐ人材を獲得し、活用できるということなのです。従業員から見れば、企業のパーパスに共感し、それゆえにそれを実現するためにその会社で働き、担当する職務に注力しているというところがポイントです。パーパスを基点にして経営を進めていくことが理路整然と説明可能なのが欧米企業の仕組みなのです。

 

一方、日本企業の場合は、戦後の高度成長期において、パーパスを基点としてジョブや社員を束ねるというような合理的な考え方に基づいた経営をしなくても、組織の求心力や社員の忠誠心を獲得する仕組みを作り上げたことで世界を席巻することができたのだと考えられます。なぜならば、戦後の日本が作り上げた企業すなわち「会社」は、運命共同体であって大家族のようなものであったからです。これは、いわゆる「メンバーシップ雇用」と「終身雇用」という日本に特殊な雇用形態からも明らかです。メンバーシップ雇用の意味合いは、運命共同体もしくは大家族の一員となることが、入社するという意味であり、いったん入社して会社という共同体の一員になれば、よっぽどのことがないかぎり追い出されることがないというものです。入社や入社後に職務を限定しない理由は、運命共同体のメンバーが、あるいは大家族のみんなが、お互いに助け合って働くことで、一族を繁栄させることを目的とするためです。

 

つまり、日本企業の場合は、運命共同体で大家族的な会社の発展を最優先させるために忠誠心をもって滅私奉公する社員を獲得できるような仕組みが確立していたわけです。少し考えるとわかりますが、一般的には、家族のような集団にパーパス(存在意義)は必要ありません。なぜ家族が存在しているかといえば、そうすることで生きながらえることができるからで、家族のパーパスは何かと問われれば、一族子孫が繁栄することだと言えましょう。もちろん、崇高な家訓をもった格式高い家族もあるでしょうが、一般的にはそうではありません。家族がさらに集まった農村や集落でも、運命共同体であることは変わりませんから、みなで力を合わせ、協力しあい、役割分担しながら農村や集落の維持と発展を支えることが最優先です。日本の会社はそのような運命共同体の代替でもあったので、辞令一本でいろんなところに行き、部署や担当職務が変わってもそれに没頭し、会社が苦しいときには歯を食いしばって乗り切ろうとする、忠誠心の高い社員を有する競争力のある組織になれたわけです。

 

企業の存在意義といったようなパーパスを意識しなくて求心力・忠誠心を武器にすることができた日本企業は、戦後のアメリカに追いつけ追い越せといったように国をあげた目標が明確であった時代、良いものを安くといったようにやることが明確であった場合には物凄い威力を発揮できました。モーレツ社員が滅私奉公で働きまくる日本企業の経営は、そもそも企業が運命共同体的ではない欧米企業に真似できるはずもなく、脅威以外の何物でもなかったでしょう。しかし、過去のようなクリアな国家戦略や目標がなくなった現代において、各企業が自社の存在意義であるパーパスを意識した経営が必要だと叫ばれるようになってきていることは周知のとおりです。しかし、日本企業の特徴を考えた場合、経営におけるパーパスの役割について、欧米企業と日本企業ではロジックの順序が逆になってしまい兼ねないところには注意が必要です。どういうことかというと、欧米のパーパス経営のロジックが「社会から必要とされる存在意義を果たすことで会社が発展できる」と考えるのに対し、日本企業のロジックは「会社が発展していくために、社会が必要とするものを提供していこう」と考えがちな点です。

 

なぜならば、運命共同体では、その共同体が存続し繁栄することが何よりも優先されるからです。運命共同体的なロジックに従うならば、社会が必要する究極の存在意義があるから企業が存在するのではなく、社員やその家族がお互いに助け合いながら生活していくために必要だから会社が存在するのです。ですから、日本企業の多くは、社員が働く目的が、会社の発展と、それに伴う家族の幸せというように、会社と家族がつながり、会社が社員の家族の面倒も(間接的に)見るという責任感も芽生えてきました。ですから、パーパスなどを意識しなくても、社員は当たり前のように忠誠心をもって会社に尽くすことが可能で、会社の発展のためであるならば何でもやってやろうとさえ思えたことでしょう。ですから、会社が繁栄できるのであれば、パーパスなどは脇においていろんな事業に手を出すことも起こりうるわけですし、時代の変化に応じて賢く業態を変えながら、アメーバのようにしぶとく生き残るということも可能なのでしょう。

 

欧米の企業には、日本のように会社を運命共同体とか大家族のイメージで捉えることは基本的にはありません。ですから、日本のようにパーパスなき求心力や従業員からの忠誠心など望めるはずもなく、企業で働く従業員の間でパーパスが意識されていなければバラバラになってしまう危険性があるわけです。伝統的には、特にアメリカ企業においては、社員を束ね、求心力を維持するために利用されてきたのは、資本の論理に従った株主価値の最大化と、それとリンクした報酬体系でした。つまり、企業が株主価値の最大化に資する利益を挙げられるかどうかがポイントであり、その利益に貢献できる人材が職務給や成果主義の形で報酬を受け取るというものでした。良かれ悪かれ企業と社員は金銭もしくは経済的交換関係で結びついており、CFOを筆頭としたファイナンスの機能がいかに重要だったかがわかります。しかし、環境破壊や不平等社会などにつながる資本主義の限界や株主至上主義への懐疑が、企業の究極の存在価値に立ち返ろうとするパーパス経営への回帰を招いたわけです。

 

では、日本企業は、これからもパーパスなき求心力・忠誠心を武器とした経営をしていけばよいのでしょうか。おそらくそうはいきません。まず、日本の会社というものが、戦争で荒廃した農村共同体や、仕事を求めて都会に流れ込んできた若者に変わって共同体を提供するという役割を果たしていたことから派生していることを忘れてはなりません。当時は時代からの要請や人々のニーズがあったからこそなのですが、もはや時代は変わり、今の人々が同じようなニーズやメンタリティを持っているわけではありません。また、グローバル化の進展や、ダイバーシティインクルージョンの重要性はますます高まっており、日本の会社であっても、同じ時代背景を共有しない多様なバックグラウンドの人々を包摂していかなければ会社は業務を行っていくことはできないでしょう。ですからこれからは、メンバーシップ雇用や終身雇用に映し出されているような運命共同体としての会社、大家族としての会社はだんだんと衰退し、日本特有のというよりは、世界である程度共通性をもった、あるいは標準化された、働き方や組織のあり方が求められていくのだと思われます。

 

内部労働市場型ジョブ型雇用とは何か

ここ数年、「ジョブ型雇用」という言葉が流行しています。過去の「成果主義」や「コンピテンシー」「グローバル人材」などの言葉が流行した時の例を見ればわかるように、数年後にはこの言葉を声高に叫ぶ人は減っていくことが予想されます。それに加え、最近では「人的資本経営」という謎の言葉も流通するようになりました。今までの経営は人的資本経営ではなかったのかと言いたくなりますが、それはさておき、今回紹介するのは、多くの日本企業が導入しようとしていると考えられる「内部労働市場型ジョブ型雇用」についてです。別の言い方をすると、「メンバーシップ型ジョブ型雇用」ということになり、中国が自国の経済を社会主義市場経済と謳っていたように、一見すると相対立する概念を並立している点で、アジア的な発想に基づく施策だといえます。

 

内部労働市場型ジョブ型雇用、もしくはメンバーシップ型ジョブ型雇用を理解する上でのポイントは、ジョブ型雇用の本質が、ジョブと人材が労働市場を通じてマッチングされるという点にあることです。余った人の処遇のために意味のない職位とか資格が創造されるということはありません。あくまで企業は利益を出して目的を実現するためにジョブを設計する。ジョブの重要性に応じて報酬が決まる。その報酬を支払うに値する能力を持った人材が、労働市場を通じて雇用される。これがジョブ型雇用の本質です。ジョブが本人の能力やニーズとミスマッチしている場合は、本人はそのジョブを辞め、もう一度労働市場に転出して新たなマッチング機会により別のジョブを見つけます。一般的にいうと転職です。もちろん、社内のジョブにより適切なものがあれば、社内転職になりますし、一般的な言い方だと昇進とか降格とか異動いうことになるでしょう。

 

しかし、いま日本でジョブ型雇用を導入すべきだという人たちや、導入すると明言している企業の多くは、上記のようなホンモノのジョブ型雇用を導入すべきだと言っているわけではありません。では、どのようなジョブ型雇用を導入しようとしているのか。それは、企業内部に労働市場を作って、その労働市場でジョブと人材のマッチングを行うという方式だと思われます。これを「内部労働市場型ジョブ型雇用」と呼びます。別の言い方をすれば、新卒採用などで獲得した人材にメンバーシップを授与することで企業内の労働市場に参加する権利を与え、企業内の労働市場においてマッチングを行っていくのです。内部労働市場に参加できるのはメンバーシップを有する社員のみ、もしくは中途採用で新たにメンバーシップを与えられた外部からの参加者のみなので、これをメンバーシップ型ジョブ型雇用とも呼ぶのです。

 

内部労働市場型ジョブ型雇用では、企業の人事部が企業全体を見渡しながら予定調和が実現するように働きかけます。例えば、内部労働市場で人材が社内失業者にならないよう調整したり、場合によっては抜擢人事や人材の引き抜きなどで強権発動します。伝統的な日本企業の人事部は、企業内でも見晴らしのよいところに陣取って社内の人事情報を集約し、人材の最適配置を行う司令塔のような役割を担ってきましたから、日本企業の人事制度が古典的な経済学でいうところの自由市場によって「見えざる手」でジョブと人材がマッチングされるような仕組みであったわけではありません。これは、社会主義市場経済に例えるならば、人材マネジメントの計画経済といった感じでしょう。

 

つまり、企業の内部労働市場では、ピュアな労働市場もしくは外部労働市場のように人材を野放しにして見えざる手でジョブとのマッチングを促進しようとするのではなく、内部労働市場を監視し、無節操な競争はさせません。希少な人材の奪い合いが市場で起こってその人物の報酬が高騰してしまうようなことも許さない。とりわけ新卒採用で入社した新しいメンバーに対しては、会社が、もしくは人事部が、計画経済的に、場合によっては本人と話し合って、本人のキャリアパスをある程度計画し、その計画にしたがってジョブをあてがっていく。そして、計画通り社員が一人前に育ち、ある程度自律的かつ主体的に自分のキャリアを選び取ることができるようになった段階で、内部市場経済に移行し、ジョブと人材とのマッチングすなわち適材適所が内部労働市場でおこなわれるのです。これは職位でいったら課長とか部長といった管理職や、特定の分野の専門職のレベルからだといえましょう。

 

今までの新卒一括採用とジョブローテーションによる人材育成と何が違うのか、昔、職能資格制度を導入する際に様々な職能要件が作文され、これがコンピテンシーに変わりコンピテンシーディクショナリーの作文が始まったように、今度の内部市場型ジョブ型雇用ではジョブグレードやら職務要件という別の作文作業が始まっただけではないのか、という疑問を持つ人がいるかもしれません。強調すべきことは、ジョブ型雇用については、報酬すなわち価格は人にではなくジョブに紐付いているということです。若いうちに担当するジョブは、それほど重要度に大きな差がないから、どのようなジョブにありつこうが価格すなわち報酬はあまり変わらない。だから、頻繁にジョブ・ローテーションを行っても、若い人たちの報酬が上下して不安定になることはありません。しかし、職位が上がってくると、企業の業績とも直結する重要なジョブからそうでないジョブまで、ジョブの値段、それと紐づく報酬の格差も大きくなってくるから、職位でいうと管理職レベル以上から、それなりに報酬格差が生まれてくることになるのです。

 

iPS細胞方式の日本型雇用とそれを支えた女性労働モデル

戦後の高度成長期を支えたのが、日本の社会システム全体と一体化するかたちで確立した日本的雇用システムです。濱口(2021)は、日本の大企業を中心に運用されてきた日本的雇用システムを特徴づけるのが、雇用契約上で職務が特定されず、雇用の本質が職務ではなく会員(メンバー)であるという「メンバーシップ型雇用」であることを確認します。メンバーシップ型雇用のもとでは、どんな仕事をするのか、どんな職務に就くのかは、使用者の命令によって定まるとされています。濱口は、日本企業において、このメンバーシップ型雇用の巧妙な仕組みがどのように機能してきたのかを分かりやすく説明しています。その中で特に今回紹介したいのが、「iPS細胞方式」と呼ばれるメンバーシップ型雇用下の採用と教育の仕組みと、主に男性正社員を対象とするメンバーシップ雇用を支えてきた「女性労働モデル」あるいはオフィスレディー(OL)モデルです。

 

まず、濱口は、伝統的な日本のメンバーシップ型の教育と採用のあり方はiPS細胞方式だといいます。iPS細胞は、今は何でもないけれども何にでもなりうる細胞なので、これをメタファーとして用いることで、未経験で採用時は専門性も何もないが、初任配属や人事異動で配属した部署や職種に適応することでどんな社員にもなることができる人材を採用し、そのような柔軟な能力を涵養するような雇用システムを日本の企業が有してきたことを表現しているわけです。具体的には、職務を定めずメンバーシップを付与するかたちで新卒の未経験者を採用し、その後、無限定社員という形で、労働時間、担当職種・部署、勤務地などを会社のその時々の状況に合わせながら柔軟に与えていくことで、どこに配属しても仕事がこなせるようになるような人材になってもらおうということなのです。

 

そして、iPS細胞方式は日本の社会全体とも密接に連動していたことを濱口は示唆します。例えば、社会全体としてiPS細胞型人材を再生産する仕組みとして、濱口は矢野眞和による「日本型大衆大学・日本型家族・日本型雇用の三位一体システム」を紹介しています。これは、年功序列賃金によって社員の子どもたちが大学生になるころに一番収入が高まるように賃金を設計し(若いときにもらうべき賃金の一部を先送りする)、それによって子供の大学の授業料を親が負担する親負担主義を特徴とする日本型家族制度を支え、18歳で大学に入学し、22歳で卒業した後にすぐに会社に就職するという18歳主義・卒業主義によって新たなiPS細胞型人材を間髪なく次々と社会に投入してきたわけです。いわゆる「つぶしが効く」法学部、経済・商学部、工学部などの人気が高かったのも、大企業に歓迎されるiPS細胞型人材になるために有利だったからでしょう。

 

iPS細胞方式に適しているのは、会社の命令に沿って長時間労働、職種転換、転勤などに文句を言うことなく柔軟に対応できる人材で、日本の社会でそれが可能だったのは主に男性でした。いわゆる「辞令一本でどこにでも行く」ことが、会社が状況に応じて柔軟に労働力を操作しつつ都合のよい人材をつくっていくiPS細胞方式には必要不可欠でしたが、「男は外に仕事に行き、女は家庭を守る」という古い日本の考え方のもとでは、女性がこのような働き方をすることは困難でした。むしろある意味無茶な労働を男性がする代わりに、家事や育児・介護の一切を女性が行うという分業だったのです。そのため、日本型雇用システムでは、オフィス・レディー(OL)に代表される男性とは別の「女性労働モデル」が確立されたのです。これは、日本の伝統的な家庭において女性が男性を支えてきたのと同様に、企業社会においても女性社員が男性社員を支えることを前提とした労働モデルで、高卒や短大卒の女性を女性正社員、すなわち今でいうところの一般職として採用するモデルでした。

 

濱口によれば、OLモデルは新卒採用から結婚退職までの短期的メンバーシップとして位置づけられており、場合によっては、女性正社員は男性正社員の花嫁候補者的存在でもありました。つまり、会社は、長期的メンバーシップを保証する男性正社員に「銃後の憂いなく」24時間働いてもらえるよう、安心して家庭を任せられる女性を結びつけるという機能も果たしてきたと濱口はいうのです。いわゆる社内結婚なのですが、女性正社員の採用基準として「自宅通勤できること」という項目があったように、花嫁修業を家庭でも会社でも行い、結婚退職までは短期的メンバーシップの下で男性正社員を支え、その後は主婦として夫を支えながら夫の長期的メンバーシップのもとで会社とのつながりを持ち続けます。会社は扶養手当などで家族全体を支えるため、女性社員本人は短期的メンバーシップに限定されていたとしても、社内結婚した夫を通じて間接的に長期的メンバーシップ、いわゆる終身雇用の安定性を享受してきたといってもよいのかもしれません。

 

上記のような日本の社会と密接に連動したメンバーシップ雇用、そしてiPS細胞方式のもとで入社したiPS細胞社員も、中高年になるとiPS細胞社員であるがゆえの試練に立たされることになったことを濱口は示唆します。つまり、若くて学習能力も高く、ぴちぴととしていたiPS細胞も、年齢とともに老化し、学習能力も低下し、何にでもなれる能力は確実に落ちていくという事実があります。会社からのさまざまな辞令や配置転換命令に従って仕事をこなしていく中で、首尾よく自分の専門性を身に着け、特定の職務、職種において会社に確実に貢献できるようになれた社員は安泰かもしれませんが、そうでない社員は、iPS細胞型社員としての価値を失っていくなかで「能力不足」という烙印を押されかねないのです。若い頃にもらうはずであった報酬を「先送り」した結果としてもらっている高給も、会社の職能資格制度上は「能力に見合った報酬」ということになっています。しかし、上昇する一方で決して下がらないと仮定された能力給の報酬と、老化に伴う実際の学習能力の低下という事実は矛盾しており、そのような事情もあって中高年社員は社内でお荷物扱いされるなどの苦悩にあえぐことになります。これを濱口は「老化したiPS細胞の悲劇」と表現しています。

参考文献

濱口桂一郎 2021「ジョブ型雇用社会とは何か: 正社員体制の矛盾と転機」(岩波新書 新赤版)

 

コミュニケーション能力(コミュ力)という考え方が無効である理由

私たちが普段何気なく使う言葉に「能力」があります。仕事ができる従業員は、能力が高いからだと考えます。どのような能力が重要なのかといえば、例えば、採用場面では、「論理的思考力」や「コミュニケーション能力」が重視されるということが良く言われます。しかし、鈴木(2022)は、近年の認知科学の進展を踏まえて、この「能力」という概念は虚構にすぎず、能力を高めることの重要性や、能力が高いとハイパフォーマーになれるといった考え方すなわち仮説は無効だということを示唆します。なぜならば、能力という概念は、実際には観察不可能なのにも関わらず、私達が、素朴な類推によってそのようなものが存在すると思い込んできただけだからというわけです。

 

例えば、コミュニケーション能力(コミュ力)を例にひいて考えてみましょう。コミュニケーション能力の存在を信じるならば、新卒採用の場面で「コミュ力」があると思われる学生を高く評価して採用を決定するかもしれません。しかし、学生間で効果的なコミュニケーションができていたその学生が、入社後は、仕事上での良好なコミュニケーションが全くできないということが起こりえます。これはどういうことでしょうか。鈴木によれば、能力という概念は、アブダクション(簡単に言えば結果を見てその原因を推測する思考法)によって生み出された存在で、この概念に内在しているのは「力」というメタファー(例え)です。力というのは、個体の中(体内や脳内)に備わっていて、それが何かを可能にするという発想に基づいています。そして、力という概念が含意するのは「いつでも・どこでも」という安定性です。

 

論理的思考力やコミュニケーション能力が、本人の内部に備わっており、「いつでも・どこでも」安定的に結果を生み出すことができる「力」であると考えるからこそ、それらの能力を基準に人材を選抜し、さらに入社後の教育などでそれらの能力を高めれば、企業は人材からの高いパフォーマンスが期待できると考えることになります。この考え方のどこが間違っているのでしょうか。鈴木によれば、能力を、人の内部に存在する潜在的な力(パワー)というように捉えるところが間違っているのです。なぜかというと、論理的思考やコミュニケーションがうまくいくかどうかというのには「文脈依存性」があり、同じような認知の働きや行動をしたとしても、文脈によって、できたりできなかったりするからです。ですから、先程のコミュ力の例のように、大学では発揮できてきたことが、仕事場面になるとさっぱりできなくなるというのは自然に起こりうる現象なのです。

 

では、論理的思考やコミュニケーションなど、仕事をしていく上で重要な働きについてはどのように理解すればよいのでしょうか。鈴木が挙げるのは、人間の認知的変化や行動変化を「多様性」「揺らぎ」「文脈依存性」を用いて捉えるということです。認知的視点に焦点を当てるならば、認知的変化を含めた人の知性を、文脈つまりそれが発現する環境から切り離して論じることは適当ではない、と鈴木はいいます。さまざまなリソースが特定の文脈との出会いによって現れたり、隠れたりする、つまり揺らいでいるのが人間の知性なのだと鈴木はいうのです。私達は多様で複数の認知的リソースを用いて活動しており、それが文脈と相互作用を引き起こすので、状況によって賢くなったり愚かになったりするのだというのです。

 

仕事のやり方など、物事の「上達」や「発達」をどのように理解すべきかについての鈴木の解説をもう少し詳しく説明してみましょう。上述からもいえるとおり、人間がものごとを上達させたり、発達することは、特定の能力がない状態から、その能力を有する状態に変化したというわけではありません。そもそも鈴木の考え方では、能力というものは虚構としての仮説にすぎず、実在するわけではない。人間が物事を上達させたり発達することを理解するために鈴木が提示するキーワードは、「認知的変化」「無意識的なメカニズム」「創発」の3つです。

 

まず、練習することで物事が上達する、熟達するという現象を考えてみます。私達は、ある行為を行う際に、さまざまな実行方法あるいはスキルを有しているのですが、それらが環境が要求するものと合致していないのがうまく物事が進まない原因となっています。練習を繰り返すと、その環境にあった作業手順とか用いるスキルが記憶されるという「マクロ化」が起こります。さらに、複数の動作を同時に行うことが可能となる「並列化」が起こります。これらが「認知的変化」であるわけですが、これらは意識の外で働くようになります。すなわち、無意識に物事が円滑に実行できるようになる「無意識化」が起こります。このように、環境とスキルが手を取り合って上達を支えているということができ、新しい環境に置かれた場合や環境変化が生じた場合には、環境と実行との相性が揺らぎを生み出し、その揺らぎがバネとなって新しいスキルが創発します。ここでいう創発とは、不可逆的なものが生まれることを意味します。これが上達のプロセスだと考えられることを鈴木は示唆します。

 

発達はもっと長期的な現象ですが、こちらも似たようなプロセスをたどります。例えば子供から大人へと人間が発達する段階では、1つのタイプの状況に対して、異なる行為を生み出す複数の認知的リソースが併存する状態が存在し、それがもたらす揺らぎがゆえに発達が生み出されます。つまり、発達のある特定の段階においても複数の認知的リソースが利用可能になっており、それらが単一のタイプの状況に対して同時並列的に発火し、競合、協調を通して情報のやり取りを行いつつ、行為を生成します。また環境が各リソースに適合度の異なる手がかりを与えるため、これらの認知リソースが、自らが生み出した行為を通してフィードバック・強化を受けることで各認知リソースの活性パターンが絶えず変化していいきます。そして、初期に頻繁に活性した認知リソースとは異なる認知リソースが支配的になっていく、これが発達の仕組みだと鈴木はいうのです。

 

上記の通り、鈴木の考え方では、上達とか発達というものは、能力がない状態から能力が獲得された状態に移行するものではなく、もともと複数の認知リソースが存在し、それらが競合、協調を重ねながら揺らぎ、状況、環境と相互作用しながら進んでいくものです。このことを踏まえると、人材育成を促進するためには、必要な環境を与え、練習させ、環境と複数のリソースとの相互作用による揺らぎを生成させ、その結果としての知識やスキルの創発を促すことが最も重要であることが示唆されます。鈴木はこれを「創発的学習」と呼び、日本の伝統芸能の技の獲得、熟達の過程などを例にひき、徒弟制のような方法の有効性を示唆します。そこでは最初から目指すものの全体像が提示され、そこに向けて練習を重ねます。弟子は師匠の作り出す世界に潜入しようとするが初めはうまくいかない。師匠から不透明なフィードバックを受けながら、自分の中のリソース、状況の提供する曖昧なリソースを揺らぎながら探索し、新たな目標を生成するという創発的な学習が行われているというのです。

参考文献

鈴木宏昭 2022「私たちはどう学んでいるのか: 創発から見る認知の変化」(ちくまプリマー新書)

派遣社員の積極的活用は業績を押し下げる。ではどうすればそれを防げるか

派遣社員を含む非正規雇用の労働力に占める割合は、日本においても正社員が中心であった高度成長期と比べるととりわけバブル崩壊以降、年々高まってきました。日本以外でも派遣社員の活用は広く普及しています。多くの人々は、企業が人件費負担を減らして業績を高めるために非正規雇用派遣社員を増やしているのだと理解していると思います。例えば、派遣社員は正社員と比べて賃金が低く、福利厚生などを提供する必要がありません。また、契約が終われば解除することが可能であり、いったん採用すれば解雇するのが難しく、かつ人件費負担の大きい正社員と比べても、低コストで柔軟な労働力を獲得することができると考えられ、それが業績を高めると考えられてきたわけです。

 

しかし、世の中で広く理解されているこの考え方に異を唱えたのがEldorとCappelli (2021)の研究です。彼らの研究は、企業が派遣社員を積極的に活用することは業績を向上させるどころか、逆に業績低下につながりかねないことを理論的、実証的に示しました。また、派遣社員の雇用に伴う業績へのネガティブな影響を和らげるには何が必要なのかについても理論的、実証的に示したのです。しかし、派遣社員という低コストで柔軟な労働力を活用することがなぜ業績を押し下げてしまうのでしょうか。その理由を一言でいえば、派遣社員の積極的な雇用が正社員の帰属意識や覇気を弱めてしまい、組織に対する貢献意欲を削いでしまうからです。また、組織に対する忠誠心や貢献意欲を派遣社員に求めることも困難です。よって、組織の目的の実現に向けて業績を高めようとする社員全体の貢献意欲が失われてしまうということなのです。

 

上記のプロセスを説明するためにEldorとCappelliが主に依拠したのは、社会的アイデンティティ理論と自己カテゴリー理論です。社会的アイデンティティ理論によれば、私たちがどの社会的集団に属しているかの知覚はアイデンティティの重要な要素を占めており、属している社会集団のステイタスが高くて誇れるものであれば、自分自身のアイデンティティも高まり、所属集団への帰属意識や貢献意欲も高まると考えられます。正社員のみからなる職場の場合、彼らが自分の職場にステイタスを感じ、誇りを持っているならば、彼らからの貢献意欲を期待することができるでしょう。しかし、職場に派遣社員が増えてくると、正社員は、派遣社員をステイタスの低い人々とみなし、自分たちとは異なるカテゴリーの人々だと認識するでしょう。これは自己カテゴリー理論から導かれます。

 

ところが、職場内の派遣社員の割合が増加し、とりわけ正社員と派遣社員とで遂行すべき仕事に顕著な違いがないような場合どうなるでしょうか。正社員の人々は、だんだんと、自分たちを派遣社員と同じレベルの、すなわち、一般的な意味でステイタスの低い労働者だと認識するようになってくるでしょう。つまり、自分自身を、派遣社員と同じレベルのステイタスのカテゴリーに属する労働者として知覚するようになるということです。社会的アイデンティティ理論によれば、自分の属している社会集団のステイタスが低ければ、その集団には愛着や帰属意識を感じず、できれば距離を置きたいと思うことでしょう。職場ではそれは働く意欲の低下を意味しています。自分の職場、自分の仕事に誇りを持てなくなり、自分の職場、自分が属する集団に貢献する喜びや意欲もなくなってしまう。それが生産性や業績に悪影響を及ぼすことは容易に想像可能です。

 

EldorとCappelliは、小売業の企業の店舗を分析単位として厳密な実証研究を実施し、上記の理論と仮説が妥当であることを示すことで、派遣社員の積極的な雇用が業績を押し下げることを示しました。ただ、それが分かったところで企業はどうすればよいのかが問題です。EldorとCappelliは、これに対する答えも示しました。派遣社員の積極的雇用に伴うネガティブな効果を防ぐために彼らが提示するのが、派遣社員を活用することに関連するビジネスに直結する価値観の共有と、派遣社員と正社員の垣根を取り払うような社交的な活動です。前者は、いわゆる「パーパス経営」に通じるもので、組織の究極の目的(パーパス)を明示し、そのパーパスを実現するためのビジネスを成功させるためには派遣社員の活用が必要であることを正社員に理解してもらうことを意味しています。

 

つまり、自分たちが属する集団のステイタスが高いか低いかという意識を取り除き、組織のパーパスに共感し、組織のパーパスの実現に向けて頑張ろうという気持ちをいかに持たせるかということなのです。そのパーパスの実現にとって派遣社員がいかに必要なのかについて腹落ちするならば、正社員も積極的にパーパスの実現に向けて働くことができるようになるでしょう。また、派遣社員と正社員の垣根を取り払うような社交的な活動は、とりわけ正社員が派遣社員を「ステイタスの低い集団だ」とみなす意識を弱めることにつながります。正社員が派遣社員を見下すようであるならば、派遣社員の増加に伴い、自分たちも同類なのではないかという意識を生み出し、職場への帰属意識の低下や貢献意欲の低下につながります。

 

そうではなく、そのような職業区分の垣根を取り払い、正社員であろうと派遣社員であろうと企業のパーパスを実現するためにともに働く仲間なのだという一体感をもって仕事に当たれるようになるならば、組織や職場に対する帰属意識が高まり、仕事のやりがいも高まり、仕事を一所懸命行うことによって組織のパーパスの実現に貢献することに内発的な喜びを見出すことにつながるでしょう。EldorとCappelliは、実証研究においてこの2つの要素すなわち「パーパス=ビジネスに直結する価値観の共有」と「派遣社員と正社員の垣根を取り払う社交的活動」の効果を調べました。その結果、これらの要素が、派遣社員の積極的な活用が企業業績を押し下げる効果を抑制することが確認されたのです。

 

EldorとCappelliの研究は、まず、派遣社員を積極的に活用することが企業業績の向上に貢献するのだというもっともらしい常識に一石を投じ、それが違うという理論的説明と実証的エビデンスを提示したこと、そして、派遣社員の積極的活用に伴う弊害を防ぐために、パーパス経営にも通じる重要な経営施策の効果性を提示しこちらも実証的に示したことで、理論的にも実践的にも価値ある知識創造を果たしたものであるといえましょう。

参考文献

Eldor, L., & Cappelli, P. (2021). The use of agency workers hurts business performance: An integrated indirect model. Academy of Management Journal, 64(3), 824-850.

 

 

ジェンダー平等への圧力を阻む日本企業の職種間力学

社会においてジェンダー平等を実現していくことは今や世界の常識となっています。例えば、SDGs(Sustainable Development Goals: 持続可能な開発目標)では、「5: ジェンダー平等を実現しよう」が謳われています。しかし、日本の企業社会におけるジェンダー平等は現在でも遅々として進んでいないと言えるのではないでしょうか。控えめに言っても、「亀のように遅い進展」と言ったところでしょう。日本の企業社会はいまだに男性優位であり、女性の活躍機会は制限されています。ではなぜ、日本では、世界の潮流であるジェンダー平等がスピーディに進んでいかないのでしょうか。この点に関して、MunとJung(2018)は、日本国内での企業行動が、ジェンダー平等の実現という世界の潮流や外部からの圧力に従うか従わないかという単純な構造になっているではなく、日本企業の内部に存在する異なる職種集団間の力学もしくは駆け引きが関係していることを論じ、2001年から2009年の企業データを用いてそれを実証しました。

 

MunとJungは、日本国内の企業においてジェンダー平等が促進されるか否かに影響を与える外部圧力として外国人機関投資家の存在を想定し、企業内の内部力学を構成する社内の職種グループとして、CSR(企業の社会的責任)、HR(人事)、IR(インベスター・リレーション)の3つを挙げています。すなわち、ジェンダー平等の促進は、世界での潮流に沿ったジェンダー平等を実現するよう期待する外部圧力としての外国人機関投資家がどれくらい当該企業に影響をおよぼしうるかという要因に加え、企業内部のこの3つの職種集団間の内部力学が、実際に企業がジェンダー平等を推進する度合いを決めるというのです。とりわけ、企業内部でジェンダー平等を促進するのに重要な役割を担うのが、企業のCSR部門です。CSR部門の仕事は、ジェンダー平等を含む企業の社会的責任の遂行ですから、CSR部門が元気で影響力が強いほど社内の人事改革が進んでジェンダー平等は進むと思われます。しかし、以下に示すように、社内の内部力学はそんなに簡単なものではなく、いくら強力なCSR部門でも壁にぶち当たることになるのです。

 

さて、現在は「環境(Environment)」「社会(Social)」「ガバナンス(Governance)」の3要素を重視するESG投資がブームとなっていますが、MunとJungが研究していた当時も社会的責任投資(SRI:Socially Responsible Investment:社会的責任投資)はグローバルにおいて潮流になりつつあり、女性差別が一向に改善しない日本の企業社会でも、金融のグローバル化に伴って進出してきた外国人機関投資家が企業経営への影響力を高め、黒船のごとくジェンダー平等に対する圧力となっていたのは間違いないでしょう。また、世界的なCSR機運の高まりともに日本企業でもCSR担当職種が生み出され、彼らの仕事はまさにCSRを推進すること、その1つが、ジェンダー平等の推進だったわけです。そして彼らの理想は、企業内においてジェンダー平等に向けた動きが加速していくことです。しかし、このような考えは必ずしも日本企業の内部では正当性を得られなかったのだとMunとJungは論じます。なぜならば、日本企業を支えてきたのが、男性正社員を中心に据えた日本型雇用システムであったからです。

 

いくら世界でグローバル化が進んでいるとはいえ、人材面において日本の企業社会はまだまだ世界と切り離されています。そして、日本企業を支えてきた男性を中心とした安定雇用を旨とする日本的雇用システムを司ってきたのが人事部門です。いくらCSR部門がジェンダー平等の必要性を声高に叫んだとしても、人事部門が賛同して本気で取り組まなければそれは実現しないわけです。実際、人事部門はイエスとは言わなかったでしょう。なぜならば、高度成長を支え、企業を成功に導いてきた既存の雇用システムを変えることは、日本企業の競争力を失わせ、企業の経営力を弱めることになる恐れがあると考えがちだからです。当時の日本の株主も同じような考えでしょうから、必ずしも企業業績に直結するわけではないジェンダー平等を企業内で推進するための外部圧力とはならなかったのでしょう。このことから、日本企業でジェンダー平等が促進される条件は企業のCSR部門の勢いが強いことなのですが、いくらCSR部門の勢力が増しても、日本企業の雇用システムの中心に鎮座している人事部門に切り込むことは容易ではなく、かつ、日本の株主が中心の企業ではガバナンス的にもジェンダー平等の推進への正当性が得られにくいという企業力学が日本国内で支配的であったことが想像できると思います。

 

そこで、日本の企業に対してジェンダー平等への外部圧力として黒船の役割を果たすのが、SRI投資やESG投資を推進する外国人機関投資家ということになるわけです。ということは、ジェンダー平等の推進に向けて人事部門への切り込みができないCSR部門が手を組むべき相手は、外国人機関投資家と対峙する必要性があるIR部門ということになるわけです。IR部門は、投資家との対話によって自社の株主価値を支えていくことが主な仕事ですから、外国人機関投資家が多ければ多いほど、ジェンダー平等の推進をアピールすることによって投資家からの支持を獲得することの重要性は高まってきます。そして、IR部門の企業内での発言力、影響力が強く、IR部門からも経営に対するジェンダー平等への強い要請が行われれば、CSR部門としても自分達のジェンダー平等への取り組みの正当性が得られることになります。つまり、CSR部門とIR部門がタッグを組んで両部門の影響力が企業内で増大するならば、企業のジェンダー平等が進むと考えられるわけです。しかし、現状の雇用システムの大幅な変更には難色を示す人事部門の影響力は、それを阻止する方向の力として働くことになります。これらの外部圧力と企業内部の力学を総合的に勘案するならば、以下のような予想が成り立つとMunとJungは論じました。

 

まず、企業の株主に占める外国人機関投資家の割合が高まるほど、企業内のジェンダー平等を促進しようとする推進力がIR部門とCSR部門の影響力の高まりに応じて強化されます。その結果、外部的なインパクトが強く、外国人機関投資家に対しても最もアピールしやすい取締役や管理職層の女性活躍推進、具体的にいえば女性役員や女性管理職の登用が進むということです。まさにCSR部門とIR部門のタッグによって推進されるジェンダー平等です。しかしその一方で、難攻不落の人事部門と折り合いをつけるためには、一般社員のジェンダー平等には手をつけないという経営上の選択が求められるわけです。MunとJungは、2001年から2009年の企業データを用いてこの予想がデータでも示されることを実証的に示しました。これは、CSRの推進に関するグローバルな外圧に晒されるほど、企業としてはその外圧に従うことで正当性を獲得できる、すなわち株主や顧客などステークホルダーからの支持を獲得することができると考えられる一方で、企業内部においては別の正当性獲得プロセスが働いており、単純に外圧としてのCSRを実践しようとすることに対しては容易に正当性を獲得することができないということをMunとJungは示したわけです。

 

上記のような力学によって生じたジェンダー平等の推進に関する日本企業の行動を外部から観察するならば、どのような印象になるでしょうか。それは、世界の潮流としてのジェンダー平等への圧力に対しては、女性取締役や女性管理職の登用を少しばかり行うことによって、「当社も積極的にジェンダー平等を推進しています」ということを投資家やメディアなどに対してアピールすることで見た目を取り繕う一方で、本丸の一般社員の雇用システムには手をつけたくはない、あるいは手をつけないという、女性側からするとややガッカリさせられる行動として映るのではないでしょうか。しかしそれが、単純に日本企業が小賢しい行動を繰り返して世間を欺いているというのではなく、もっと複雑な力学が作用することで生じていることをMunとJungは示したのです。

参考文献

Mun, E., & Jung, J. (2018). Change above the glass ceiling: Corporate social responsibility and gender diversity in Japanese firms. Administrative Science Quarterly, 63(2), 409-440.