将来性の高い人材では賃金の男女格差が逆転する理由と証拠:ハイポテンシャル女性プレミアムの存在

世界において、そして日本でも特に、男女間で賃金格差が存在することはこれまで多くの調査研究で指摘されてきています。そしてこれは、企業社会における男女格差、すなわち男性優位で女性が不利益を被るような社会が持続している証拠だと考えられています。例えば、企業の役員レベルにおける女性の割合が非常に少ないことからもいえるように、女性に厳しいビジネス社会では、どのような業界や階層においても、男性のほうが女性よりも賃金水準が高い傾向にあるということが常識として捉えられていると思われます。

 

賃金の男女格差を議論するときの主張の1つが、女性のほうが男性よりも能力や成果が低いから、就いている職業の生産性が低いからなどの性別の違いが間接的に関わっていて直接的には影響していない何らかの理由(こちらの例では、能力や職業の違いが直接的要因)ではなく、能力や成果などが同じである男性と女性を比べたとしても、男性のほうが女性よりも賃金水準が高いのだという主張です。もし、性別が直接的には賃金格差には由来しないが、特定の職業への就職や職位への昇進などにおける機会に男女間の不平等が存在してるということであれば、そのような男女の機会均等を実現すれば賃金の男女格差はなくなるはずです。しかし、性別が直接賃金格差に影響している、すなわち「女性だから賃金が低い」という現象が存在するならば話は別です。

 

しかし、近年では、このような賃金の男女格差に関する一面的な認識と理解に異を唱える研究が出てきています。その中でも、今回紹介するLeslie, Manchester, & Dahm (2017)の研究では、将来性が高い人材(将来、企業のマネジャーや役員になっていくような将来性を持ったハイポテンシャル人材)に限っていうと、ある特定の条件で、具体的には、ダイバーシティを重視する企業や職場において、賃金の男女格差が逆転するということ、すなわち女性のほうが男性よりも賃金水準が高くなることを理論的に説明し、それを2つのフィールド調査および2つの実験によって実証しました。このことから、Leslieらは、賃金における「ハイポテンシャル女性プレミアム」の存在を実証したのです。ではなぜ、将来性の高い人材では「女性プレミアム」が生まれ、賃金の男女格差が逆転するのでしょうか。

 

上記の理由について、Leslieらは、労働市場における需要と供給の関係を用いたマクロ的な理解と、戦略的人的資源管理の理論を用いたミクロ的な理論を用いて説明しています。マクロ的な説明としては、とりわけ企業のトップマネジメントの役員レベル、そしてそれを目指すシニアリーダーレベルの女性を増やすべきであるという社会の潮流があり、そのような努力をしようとしている企業が増加しているという現実があります。将来性の高いハイポテンシャルな女性の数はたくさんいるわけではないので、限りあるハイポテンシャル女性を獲得してつなぎとめようとする企業がそのような女性を奪い合うという市場構造になるため、需要と供給の関係として、同じレベルのハイポテンシャル男性よりもハイポテンシャル女性の賃金相場が上昇するということが考えられます。

 

ただ、労働市場の理解だけだとマクロ的な説明に偏っているので、実際にどういうメカニズムによってハイポテンシャル女性の賃金が男性よりも高くなるのかを説明することが求められます。そこで、企業の戦略的人的資源管理の観点から、実際に企業のマネジャーが従業員の賃金決定をする際の心理的側面にまでブレイクダウンして考えるならば、そこには「ダイバーシティ価値の知覚」というものが関連していることをLeslieらは指摘しました。別の言い方をすれば、将来性の高い女性の賃金が同じく将来性の高い男性の賃金よりも高くなる「ハイポテンシャル女性プレミアム」の正体は「ダイバーシティ価値」にあるということなのです。これは、ダイバーシティ推進が企業価値を高めるという戦略的視点において、将来性の高い女性はその存在だけで企業価値を高めているというような視点です。

 

トップマネジメントの女性役員の数を増やすことを目的とするなどのダイバーシティ方針を掲げ、ダイバーシティに積極的に取り組む企業や職場に必要なのは、その目的を実現するための価値を持った人材、すなわちダイバーシティ価値を持った人材です。そして、実際に企業のトップや役員レベルにまで将来上り詰める可能性のある女性社員すなわち将来性の高い女性社員は、このダイバーシティ価値を持った人材だと知覚されます。つまり、将来性の高い女性社員は、その会社にいるだけで、その会社のダイバーシティ推進に貢献していることになり、同じレベルの男性社員と比べてもより多く会社に貢献していると考えることが可能です。ただ、将来性が高くない女性の場合はそうではありません。単に職場に女性が多いということと、トップマネジメントや上位層に昇進しそうな女性が多いこととは話が違い、後者の存在のほうがダイバーシティを推進しようとする企業の目的により貢献しているといえるので賃金プレミアムがつくのです。

 

理論的説明がわかったところで、実証としてはどうだったのでしょうか。Leslieらの1つ目のフィールド調査では、1つの大企業に勤務している男女の社員を社内アセスメントのデータから将来性が高い人材と低い人材に区分し、それを賃金データと比較することによって、一般的には女性社員は男性社員よりも約5%賃金水準が低いが、将来性が高い人材に限っていうと、女性社員のほうが男性社員よりも約7%賃金水準が高いことを確認しました。この企業でのハイポテンシャル女性の割合が少なかったので、この2つの結果の辻褄は合います。2つ目の実験では、賃金の意思決定をするマネージャーは、将来性の高い人材については、女性のほうが男性よりもダイバーシティ価値が高いと知覚し、それを介して将来性の高い女性の賃金を、同じくらい将来性の高い男性の賃金よりも高く設定する傾向にあることが確認されました。将来性の低い男女についてはそのような傾向は見られませんでした。

 

Leslieらの3つ目のフィールド調査では、S&P 1500企業の1992年から2006年までのデータを用いました。そして、ダイバーシティをより推進していると考えられている消費財・サービス産業の企業のほうについては、女性トップの役員報酬が同じ職位の男性役員の報酬よりも約20%高いことを確認しました。一方、ダイバーシティの推進度が相対的に遅く、業界的にも男性的な製造業の企業についてはそのような傾向は見られませんでした。ダイバーシティ価値の知覚に基づいたハイポテンシャル女性プレミアムの存在を示唆する結果です。そして、4つ目の実験では、ダイバーシティを推進している企業に働いているという設定を行った場合において、マネジャーは将来性の高い女性に対して有意にダイバーシティ価値の知覚を高めるという結果を得ました。

 

上記の4つの実証研究によって、Leslieらが主張する、将来性の高い人材では賃金の男女格差が逆転すること、そしてその理論的なメカニズムとして、ダイバーシティ価値知覚に基づく「ハイポテンシャル女性プレミアム」が存在することを示したのです。

参考文献

Leslie, L. M., Manchester, C. F., & Dahm, P. C. (2017). Why and when does the gender gap reverse? Diversity goals and the pay premium for high potential women. Academy of Management Journal60(2), 402-432.

 

ハイブリッド型社会的企業の運営を可能にする「構造化された柔軟性」

社会的企業とは、社会問題の解決を目的としたビジネスに取り組む企業を指しますが、社会問題の解決と収益を生み出すビジネスを両立させることは簡単なことではありません。SmithとBesharov (2019)は、営利企業と非営利企業の要素を併せ持つ社会的企業を、「ハイブリッド型社会的企業」と呼び、Digital Divide Data (DDD)というハイブリッド型社会的企業を対象とする5年にわたる調査を通して、ハイブリッド型社会的企業が持続的に経営を行うことを可能にする「構造化された柔軟性」というコンセプトを導き出しました。すなわち、しっかりとした構造を有しながらも、環境に応じて柔軟な対応を可能にする組織づくりを行うことが、ハイブリッド型社会的企業の持続的な運営に有効だというのです。

 

DDDは、カンボジアで最も不利な状況に置かれている人々を訓練しながらデータ入力業務に従事させることでスキルを獲得してもらい、もっと高い収入を得られる職につけるよう支援する(卒業させる)ことを目的として設立されました。DDDは、世界でももっとも貧困で不利な人々を支援しつつも、事業存続のための収益を生みだすビジネスとして成立させるという2つの異なる目的を両立させるという困難性を宿命として設立された社会的企業だと言えます。相矛盾するあるいは対立する目的を有しているのは社会的企業というビジネス上の宿命であって、この困難性から逃れられません。しかし、この2つを両立させることが、そのような存在意義(パーパス)を持った企業が持続的に運営されるために必要不可欠なのです。つまり、社会問題の解決と収益を生むビジネスのどちらか一つのみに偏ってしまうと、そもそもDDDが設立された存在理由としてのパーパスを実現できないのです。

 

SmithとBesharovは、DDDの設立からの紆余曲折を詳細に調査する中で、「構造化された柔軟性」という組織運営の特徴の重要性を発見しました。では、この構造化された柔軟性とは何なのでしょうか。これは2つの構造から成り立っています。1つ目は、「パラドキシカル・フレーム」という経営トップをはじめとして社内で共有される構造的なマインドセットで、2つ目は、「ガードレール」と呼ばれる、DDDが間違った方向に進んでいかないように進行方向をガードする組織内構造です。そして、この2つの構造を保ちつつも、経営としては常に実験的試みすなわち試行錯誤を繰り返しながら環境との相互作用を行い、柔軟な経営をしていくのです。この構造化された柔軟性が、営利性と非営利性の両方を合わせもつハイブリッド型社会的企業に宿命づけられている相対立する2つのパーパスを両立させることにつながると考えたのです。

 

DDDにとってのパラドキシカル・フレームとは、相矛盾する目的同士が相互に関連しているため、社会的企業を持続させるためには、それらを両立させることが必要不可欠であることを認識し、それを常に意識して組織を経営していたということです。これは、社会問題の解決とビジネスとしての収益性の両方を常に追求するということで、どちらか一方を優先することでも中途半端に妥協することでもありません。経営トップ以下、このようなパラドキシカル・フレームをリーダーやマネジャーで共有するというマインドセットとしての構造なのです。とはいえ、単に経営者、マネージャー、働く人々のマインドセットがそうあるだけでは経営が持続するとは言えません。そこで、両方の目的が実現するようにいろいろと動いてみる。すなわち、実験的な試み、試行錯誤を常に繰り返してなんとかビジネスを前進させるということが必要になってきます。

 

上記のように、パラドキシカル・フレームという認知的構造を維持しつつも試行錯誤を通じていろいろと動いていく運営において、その動きが不適切な方向に行ってしまわないようにガードするのが、ガードレールという2つ目の構造です。ガードレールは、片方は社会問題の解決、もう片方は収益を生み出すビジネスという測定可能な指標などを指し、社会問題の解決もしくは収益を生み出すビジネスのどちらかに焦点が当たりすぎ、どちらかの方向に行きすぎることで、片方の目的から遠ざかってしまいそうになったときに「赤信号」が点灯して方向転換を促すような構造です。社会的企業を道を走行している車に例えた場合、社会問題の解決と収益を生み出すビジネスは対立していて距離があるので、ある程度の道幅があるところを企業が走行するイメージです。片方に寄りすぎてガードレールにぶつかったら方向を反転するというイメージを持ってもらえば分かりやすいでしょう。

 

SmithとBesharovがDDDを調査した5年で、DDDが有していた「構造化された柔軟性」がどのように働いてきたかを簡単に説明しましょう。2001年にDDDが設立される前後から、創業者の頭の中では、DDDの宿命として最も不利な人々を雇用してサポートしながらビジネスとして収益を生み出すことが矛盾し対立していること、けれどもそれらを両立させることが会社設立の目的でもあるというパラドキシカル・フレームが出来上がっていました。この矛盾ないしは対立が顕在化するたびに、創業者やDDD幹部は、自社のアイデンティティ(私たちは何者か)やパーパス(何のために存在しているのか)に立ち返り、それを再検討します。また、社会問題の解決を主眼とする幹部と、ビジネスの専門家としての幹部の両方を経営に参画させることでガードレールの審判役を確保しました。そして、DDD運営の初期には、社会問題の解決を図るための試みがビジネスの持続性を犠牲にしているという懸念が、ビジネスを専門とする幹部から挙がって来ました。ガードレールにぶつかったわけです。

 

ガードレールにぶつかると、方向が転換します。今度は、ビジネスを専門とする幹部の増加や彼らの献身的な努力によって、様々な試行錯誤が行われました。そうする中でだんだんと困難が克服され、ビジネスが軌道に乗ってきます。しかし、収益を生むビジネスの成立と社会問題の解決という2つの目的の矛盾や対立が解消されたわけではありませんし、DDDが存続するためには両立が不可欠であるとう条件も変わっていません。また、ビジネスが成長していくにつれ、DDDの将来の方向性について様々な課題や懸念材料も出てきます。再び、DDDのアイデンティティやパーパスの再検討が行われます。そして、今度は、ビジネスとしては順調でも、社会問題の解決に対してDDDが十分にインパクトを出せているのかという懸念が社会問題側の幹部から出され、反対のガードレールにぶつかりました。それはDDDのさらなる方向転換を意味していました。

 

DDDはさらなる社会問題解決へのインパクトを求めて企業の舵取りを行っていきました。このように、SmithとBesharovが調査していた期間において、DDDは、パラドキシカル・フレームという認知構造を維持しつつ、なんとか2つの相対立する目的を両立すべく、組織のアイデンティティやパーパスを再検討、再定義し、それに基づいて試行錯誤を繰り返してきました。そして、どちらかが行き過ぎるとガードレールにぶつかって軌道修正するという動きを繰り返してきたのです。パラドキシカル・フレームとガードレールという構造があったからこそ、DDDが試行錯誤を通じて柔軟に組織を走らせても、迷走することなく社会問題と収益を生むビジネスの両立を追求しながら事業を継続することができたのだと言えましょう。繰り返しますが、社会問題の解決と収益を生み出すビジネスという矛盾や対立は解消されることはないでしょう。ですが、この両者を追い求め、両立させることがそもそも社会的企業を設立する目的でもあり、存在意義でもあるのです。構造化された柔軟性が、このような困難な宿命にある企業を持続させるために有効であることをSmithとBesharovは見出したのです。

 

参考文献

Smith, W. K., & Besharov, M. L. (2019). Bowing before dual gods: How structured flexibility sustains organizational hybridity. Administrative Science Quarterly, 64(1), 1-44.

論語から学ぶ日本的組織経営

日本の組織経営は世界から見てもユニークな点が多くあります。そして、それが戦後の日本の高度成長を支えてきたともいえるし、その後の失われた30年といった低空飛行の原因となっているともいえましょう。それに関して守屋(2020)は、日本においては、論語をはじめとする儒教が、日本の人々の無意識の価値観に影響を与えていると指摘します。それは、日本の教育や産業界の実践が儒教の影響を受けているので、そこで育った人々は必然的に儒教的な価値観を当たり前だと思うようになるからです。守屋が著書において詳細に説明する儒教的な日本の無意識の価値観は以下の10項目に集約可能です。

  1. 年齢や年次による上下や序列のある関係や組織を当たり前だと思う
  2. 生まれつきの能力に差はない、努力やそれを支える精神力で差はつく
  3. 性善説で人や物事を考える
  4. 秩序やルールは自分たちで作るものというより、上から与えられるもの
  5. 社長らしさ、課長らしさ、学生らしさ、先生らしさ、裁判官らしさなど、与えられた役割に即した「らしさ」や「分(役割分担と責任)」を果たすのが何よりいいこと
  6. ホンネとタテマエを使い分けるのを当たり前と思う
  7. 理想の組織を「家族」との類推で考えやすい
  8. 組織や集団内で、下の立場の「義務」や「努力」が強調されやすい
  9. 教育の基本は「人格教育」
  10. 男尊女卑

まず、上記の10項目がどのように日本の教育に影響を与えてきたかを見てみましょう。守屋がしているように対応させて説明するならば、日本の教育では、①年次による先輩・後輩関係が当たり前、②できないのは努力が足りないからだと考える指導(努力・精神主義)、③子供は基本的にいい子というタテマエ(性善説)、④学校が一方的に決めた校則をとにかく生徒は守らされる、⑤学生らしさ、先生らしさ、校長らしさなどが求められる、⑥生徒の個性化はタテマエで、集団指導に頼る、⑦先生がお父さん・お母さんで、生徒が子供たち、⑧現場の教員に対する過剰な負担の押し付けを当然視する、⑨日本の学校教育は「徳育」を担うことが大きな柱、⑩女性管理職、特に女性校長の比率の低さ、となります。さらに、教育の大前提として、②の努力・精神主義に加え、⑪集団の帰属重視、集団の教育力を活かす、⑫「気持ちを考える」ことこそ人格教育の基本、という価値観があることを守屋は指摘します。

 

そして、日本の教育を受けた人々が学校を卒業すると同時に間髪入れず入社する会社という組織、大きく言えば日本の産業界においても、上記に挙げた10+2の項目に対応する形で儒教的な価値観を整理することができると守屋は言います。それが以下の13項目です。

  1. 年功序列(①上下や序列関係が当たり前)
  2. 社員は全員、社長ないしは役員候補(②生まれつきの差はない)
  3. 残業や異動を断らないのが出世の基本(②努力・精神主義
  4. 不祥事の温床となるチェックの甘い体制(③性善説
  5. 社員がどう働くかは、基本的に会社が決める(④受け身の秩序・ルール)
  6. 社長らしさ、課長らしさ、新人らしさが求められる(⑤らしさと分のしばり)
  7. 会議でホンネを言わず、飲み会でこぼす(⑥ホンネとタテマエ)
  8. 社長がお父さんで、社員が子供たち(⑦家族主義)
  9. アルバイトや契約社員にまで過剰な責任と労働(⑧下の義務偏重)
  10. 仕事は修行の場で、人は仕事で磨かれる(⑨人格教育)
  11. 男女の賃金・待遇差別(⑩男尊女卑)
  12. 職場やチームのなかで、新人は育まれる(⑪集団指導)
  13. 空気を読んだり、忖度のうまい人間が出世しやすい(⑫気持ち主義)

そもそも儒教は、「秩序の維持や安定」を実現するために政治利用されてきた思想でもあります。ですから、「序列を重んじる」「親や上司、先輩のいうことを聞く」「空気には逆らわない」といった価値観の縛りが強まれば、「そのまま何もせず流されるのが最適な行動」となることを守屋は指摘します。そこに家族主義的な要素である濃密な人間関係、助け合い、育み合いが入ってくると、組織内の結びつきや人間関係を深める一方で、身内の悪事や失態、時代遅れの事項への処理のしずらさを生んでしまうというのです。また、企業が流行に乗じて経営理念やパーパス、ダイバーシティを高らかに謳ったとしても、それはあくまでタテマエであり、ホンネでは過去の誰かから与えられたものとしての古いやり方や慣習を変えられず、なんとなく維持しつづけているというようなことになるわけです。

 

例えば、守屋によれば、アメリカの社会では、「個」が重視されるがあまり、人々は「自分は何者なのか」というアイデンティティを常に考えなければなりません。ですから、会社の理念やパーパスが重要で、それと照らし合わせることで、自分のアイデンティティと整合性があって納得して働くことができる会社を見つけます。それが実現するまで何度か転職することも容認されます。一方、日本では、与えられた環境や組織に適応することが重視されるので、会社の理念やパーパスが掲げられていても、それはお飾りに過ぎないと守屋は言います。「自分は何者なのか」ということを考えない者同士がなんとなく結びついて「和」や「同」を作り、次々と上から与えられる役割や地位を果たしていきながら、定年までなだれ込むというのが、最近までの日本企業の姿だったというわけです。

 

そして、理想の組織を家族との類推で考えやすい儒教では、組織や集団を長期にわたって維持していくために、親が子を持ち、その子が親になり、また子を持ち、その子も親になって、、、という家族関係と対応する形で、組織においても、上司が部下を持ち、その部下がやがて上司になって部下を持ち、その部下も、、、といった連鎖を内部でうまく成り立たせることで、前の世代から伝えられてきた良き制度や文化、しきたりを、未来の世代へとうまく受け渡していくことが安定した秩序維持の基盤だと考えます。これが、受け渡しの順番や育む/育まれる関係としての「序列や上下関係」、自分の子や部下、後輩を、過去の遺産を引き継ぐ人材に育てていくという「伝統に価値を置く姿勢」につながっているというのです。日本の会社において、先輩は後輩をOJTを通して育てていくのが当たり前という風土はそこからきています。部下や後輩を育てることで上司や先輩も育つので、お互いに育み合いながら組織としての総合力を高めていくというのが日本の組織の強さでもあったことを守屋は示唆するのです。

 

では、上記のような特徴は日本の社会や会社にだけ当てはまることなのでしょうか。お隣の中国や韓国ではどうなのでしょうか。これについては、古代の思想としての論語を受け継いだ儒教の価値観は、日本のみならず儒教文化圏といわれる中国や韓国にも共有されているものもあるわけですが、こうした価値観自体の有無や比重の置き方、そこからの発展のさせ方、他の思想との関係(日本でいえば神道や仏教)、地理や風土の影響などを受けて、日中韓の違いは生まれてきたと守屋は指摘します。

文献

守屋淳 2020「『論語』がわかれば日本がわかる」(ちくま新書)

 

パーパスなき求心力・忠誠心を武器にしていた日本企業

近年、流行が広がりつつある「パーパス経営」。これは、社会における企業の究極の存在価値を基軸に経営を進めていこうとする思想ですが、これはもともとはジョブ型雇用を前提とする欧米企業のためにつくられた、極めて合理的な発想に基づいているといえます。つまり、欧米における企業は、その存在意義・目的を実現するために必要なジョブが集まったシステムだと考えられるのであり、企業のパーパスに共感した人材が、その中の1つのジョブ(ポジション)を担当することで、目的に実現に向けた一翼を担うということだからです。つまり、企業のパーパスが明確であれば、その実現に向けたジョブやタスクのコーディネートが容易になり、その実現に情熱を注ぐ人材を獲得し、活用できるということなのです。従業員から見れば、企業のパーパスに共感し、それゆえにそれを実現するためにその会社で働き、担当する職務に注力しているというところがポイントです。パーパスを基点にして経営を進めていくことが理路整然と説明可能なのが欧米企業の仕組みなのです。

 

一方、日本企業の場合は、戦後の高度成長期において、パーパスを基点としてジョブや社員を束ねるというような合理的な考え方に基づいた経営をしなくても、組織の求心力や社員の忠誠心を獲得する仕組みを作り上げたことで世界を席巻することができたのだと考えられます。なぜならば、戦後の日本が作り上げた企業すなわち「会社」は、運命共同体であって大家族のようなものであったからです。これは、いわゆる「メンバーシップ雇用」と「終身雇用」という日本に特殊な雇用形態からも明らかです。メンバーシップ雇用の意味合いは、運命共同体もしくは大家族の一員となることが、入社するという意味であり、いったん入社して会社という共同体の一員になれば、よっぽどのことがないかぎり追い出されることがないというものです。入社や入社後に職務を限定しない理由は、運命共同体のメンバーが、あるいは大家族のみんなが、お互いに助け合って働くことで、一族を繁栄させることを目的とするためです。

 

つまり、日本企業の場合は、運命共同体で大家族的な会社の発展を最優先させるために忠誠心をもって滅私奉公する社員を獲得できるような仕組みが確立していたわけです。少し考えるとわかりますが、一般的には、家族のような集団にパーパス(存在意義)は必要ありません。なぜ家族が存在しているかといえば、そうすることで生きながらえることができるからで、家族のパーパスは何かと問われれば、一族子孫が繁栄することだと言えましょう。もちろん、崇高な家訓をもった格式高い家族もあるでしょうが、一般的にはそうではありません。家族がさらに集まった農村や集落でも、運命共同体であることは変わりませんから、みなで力を合わせ、協力しあい、役割分担しながら農村や集落の維持と発展を支えることが最優先です。日本の会社はそのような運命共同体の代替でもあったので、辞令一本でいろんなところに行き、部署や担当職務が変わってもそれに没頭し、会社が苦しいときには歯を食いしばって乗り切ろうとする、忠誠心の高い社員を有する競争力のある組織になれたわけです。

 

企業の存在意義といったようなパーパスを意識しなくて求心力・忠誠心を武器にすることができた日本企業は、戦後のアメリカに追いつけ追い越せといったように国をあげた目標が明確であった時代、良いものを安くといったようにやることが明確であった場合には物凄い威力を発揮できました。モーレツ社員が滅私奉公で働きまくる日本企業の経営は、そもそも企業が運命共同体的ではない欧米企業に真似できるはずもなく、脅威以外の何物でもなかったでしょう。しかし、過去のようなクリアな国家戦略や目標がなくなった現代において、各企業が自社の存在意義であるパーパスを意識した経営が必要だと叫ばれるようになってきていることは周知のとおりです。しかし、日本企業の特徴を考えた場合、経営におけるパーパスの役割について、欧米企業と日本企業ではロジックの順序が逆になってしまい兼ねないところには注意が必要です。どういうことかというと、欧米のパーパス経営のロジックが「社会から必要とされる存在意義を果たすことで会社が発展できる」と考えるのに対し、日本企業のロジックは「会社が発展していくために、社会が必要とするものを提供していこう」と考えがちな点です。

 

なぜならば、運命共同体では、その共同体が存続し繁栄することが何よりも優先されるからです。運命共同体的なロジックに従うならば、社会が必要する究極の存在意義があるから企業が存在するのではなく、社員やその家族がお互いに助け合いながら生活していくために必要だから会社が存在するのです。ですから、日本企業の多くは、社員が働く目的が、会社の発展と、それに伴う家族の幸せというように、会社と家族がつながり、会社が社員の家族の面倒も(間接的に)見るという責任感も芽生えてきました。ですから、パーパスなどを意識しなくても、社員は当たり前のように忠誠心をもって会社に尽くすことが可能で、会社の発展のためであるならば何でもやってやろうとさえ思えたことでしょう。ですから、会社が繁栄できるのであれば、パーパスなどは脇においていろんな事業に手を出すことも起こりうるわけですし、時代の変化に応じて賢く業態を変えながら、アメーバのようにしぶとく生き残るということも可能なのでしょう。

 

欧米の企業には、日本のように会社を運命共同体とか大家族のイメージで捉えることは基本的にはありません。ですから、日本のようにパーパスなき求心力や従業員からの忠誠心など望めるはずもなく、企業で働く従業員の間でパーパスが意識されていなければバラバラになってしまう危険性があるわけです。伝統的には、特にアメリカ企業においては、社員を束ね、求心力を維持するために利用されてきたのは、資本の論理に従った株主価値の最大化と、それとリンクした報酬体系でした。つまり、企業が株主価値の最大化に資する利益を挙げられるかどうかがポイントであり、その利益に貢献できる人材が職務給や成果主義の形で報酬を受け取るというものでした。良かれ悪かれ企業と社員は金銭もしくは経済的交換関係で結びついており、CFOを筆頭としたファイナンスの機能がいかに重要だったかがわかります。しかし、環境破壊や不平等社会などにつながる資本主義の限界や株主至上主義への懐疑が、企業の究極の存在価値に立ち返ろうとするパーパス経営への回帰を招いたわけです。

 

では、日本企業は、これからもパーパスなき求心力・忠誠心を武器とした経営をしていけばよいのでしょうか。おそらくそうはいきません。まず、日本の会社というものが、戦争で荒廃した農村共同体や、仕事を求めて都会に流れ込んできた若者に変わって共同体を提供するという役割を果たしていたことから派生していることを忘れてはなりません。当時は時代からの要請や人々のニーズがあったからこそなのですが、もはや時代は変わり、今の人々が同じようなニーズやメンタリティを持っているわけではありません。また、グローバル化の進展や、ダイバーシティインクルージョンの重要性はますます高まっており、日本の会社であっても、同じ時代背景を共有しない多様なバックグラウンドの人々を包摂していかなければ会社は業務を行っていくことはできないでしょう。ですからこれからは、メンバーシップ雇用や終身雇用に映し出されているような運命共同体としての会社、大家族としての会社はだんだんと衰退し、日本特有のというよりは、世界である程度共通性をもった、あるいは標準化された、働き方や組織のあり方が求められていくのだと思われます。

 

コミュニケーション能力(コミュ力)という考え方が無効である理由

私たちが普段何気なく使う言葉に「能力」があります。仕事ができる従業員は、能力が高いからだと考えます。どのような能力が重要なのかといえば、例えば、採用場面では、「論理的思考力」や「コミュニケーション能力」が重視されるということが良く言われます。しかし、鈴木(2022)は、近年の認知科学の進展を踏まえて、この「能力」という概念は虚構にすぎず、能力を高めることの重要性や、能力が高いとハイパフォーマーになれるといった考え方すなわち仮説は無効だということを示唆します。なぜならば、能力という概念は、実際には観察不可能なのにも関わらず、私達が、素朴な類推によってそのようなものが存在すると思い込んできただけだからというわけです。

 

例えば、コミュニケーション能力(コミュ力)を例にひいて考えてみましょう。コミュニケーション能力の存在を信じるならば、新卒採用の場面で「コミュ力」があると思われる学生を高く評価して採用を決定するかもしれません。しかし、学生間で効果的なコミュニケーションができていたその学生が、入社後は、仕事上での良好なコミュニケーションが全くできないということが起こりえます。これはどういうことでしょうか。鈴木によれば、能力という概念は、アブダクション(簡単に言えば結果を見てその原因を推測する思考法)によって生み出された存在で、この概念に内在しているのは「力」というメタファー(例え)です。力というのは、個体の中(体内や脳内)に備わっていて、それが何かを可能にするという発想に基づいています。そして、力という概念が含意するのは「いつでも・どこでも」という安定性です。

 

論理的思考力やコミュニケーション能力が、本人の内部に備わっており、「いつでも・どこでも」安定的に結果を生み出すことができる「力」であると考えるからこそ、それらの能力を基準に人材を選抜し、さらに入社後の教育などでそれらの能力を高めれば、企業は人材からの高いパフォーマンスが期待できると考えることになります。この考え方のどこが間違っているのでしょうか。鈴木によれば、能力を、人の内部に存在する潜在的な力(パワー)というように捉えるところが間違っているのです。なぜかというと、論理的思考やコミュニケーションがうまくいくかどうかというのには「文脈依存性」があり、同じような認知の働きや行動をしたとしても、文脈によって、できたりできなかったりするからです。ですから、先程のコミュ力の例のように、大学では発揮できてきたことが、仕事場面になるとさっぱりできなくなるというのは自然に起こりうる現象なのです。

 

では、論理的思考やコミュニケーションなど、仕事をしていく上で重要な働きについてはどのように理解すればよいのでしょうか。鈴木が挙げるのは、人間の認知的変化や行動変化を「多様性」「揺らぎ」「文脈依存性」を用いて捉えるということです。認知的視点に焦点を当てるならば、認知的変化を含めた人の知性を、文脈つまりそれが発現する環境から切り離して論じることは適当ではない、と鈴木はいいます。さまざまなリソースが特定の文脈との出会いによって現れたり、隠れたりする、つまり揺らいでいるのが人間の知性なのだと鈴木はいうのです。私達は多様で複数の認知的リソースを用いて活動しており、それが文脈と相互作用を引き起こすので、状況によって賢くなったり愚かになったりするのだというのです。

 

仕事のやり方など、物事の「上達」や「発達」をどのように理解すべきかについての鈴木の解説をもう少し詳しく説明してみましょう。上述からもいえるとおり、人間がものごとを上達させたり、発達することは、特定の能力がない状態から、その能力を有する状態に変化したというわけではありません。そもそも鈴木の考え方では、能力というものは虚構としての仮説にすぎず、実在するわけではない。人間が物事を上達させたり発達することを理解するために鈴木が提示するキーワードは、「認知的変化」「無意識的なメカニズム」「創発」の3つです。

 

まず、練習することで物事が上達する、熟達するという現象を考えてみます。私達は、ある行為を行う際に、さまざまな実行方法あるいはスキルを有しているのですが、それらが環境が要求するものと合致していないのがうまく物事が進まない原因となっています。練習を繰り返すと、その環境にあった作業手順とか用いるスキルが記憶されるという「マクロ化」が起こります。さらに、複数の動作を同時に行うことが可能となる「並列化」が起こります。これらが「認知的変化」であるわけですが、これらは意識の外で働くようになります。すなわち、無意識に物事が円滑に実行できるようになる「無意識化」が起こります。このように、環境とスキルが手を取り合って上達を支えているということができ、新しい環境に置かれた場合や環境変化が生じた場合には、環境と実行との相性が揺らぎを生み出し、その揺らぎがバネとなって新しいスキルが創発します。ここでいう創発とは、不可逆的なものが生まれることを意味します。これが上達のプロセスだと考えられることを鈴木は示唆します。

 

発達はもっと長期的な現象ですが、こちらも似たようなプロセスをたどります。例えば子供から大人へと人間が発達する段階では、1つのタイプの状況に対して、異なる行為を生み出す複数の認知的リソースが併存する状態が存在し、それがもたらす揺らぎがゆえに発達が生み出されます。つまり、発達のある特定の段階においても複数の認知的リソースが利用可能になっており、それらが単一のタイプの状況に対して同時並列的に発火し、競合、協調を通して情報のやり取りを行いつつ、行為を生成します。また環境が各リソースに適合度の異なる手がかりを与えるため、これらの認知リソースが、自らが生み出した行為を通してフィードバック・強化を受けることで各認知リソースの活性パターンが絶えず変化していいきます。そして、初期に頻繁に活性した認知リソースとは異なる認知リソースが支配的になっていく、これが発達の仕組みだと鈴木はいうのです。

 

上記の通り、鈴木の考え方では、上達とか発達というものは、能力がない状態から能力が獲得された状態に移行するものではなく、もともと複数の認知リソースが存在し、それらが競合、協調を重ねながら揺らぎ、状況、環境と相互作用しながら進んでいくものです。このことを踏まえると、人材育成を促進するためには、必要な環境を与え、練習させ、環境と複数のリソースとの相互作用による揺らぎを生成させ、その結果としての知識やスキルの創発を促すことが最も重要であることが示唆されます。鈴木はこれを「創発的学習」と呼び、日本の伝統芸能の技の獲得、熟達の過程などを例にひき、徒弟制のような方法の有効性を示唆します。そこでは最初から目指すものの全体像が提示され、そこに向けて練習を重ねます。弟子は師匠の作り出す世界に潜入しようとするが初めはうまくいかない。師匠から不透明なフィードバックを受けながら、自分の中のリソース、状況の提供する曖昧なリソースを揺らぎながら探索し、新たな目標を生成するという創発的な学習が行われているというのです。

参考文献

鈴木宏昭 2022「私たちはどう学んでいるのか: 創発から見る認知の変化」(ちくまプリマー新書)

異なる価値観を持つメンバーを束ねて組織の一体感を作り出す方法

パーパス経営を実践していくうえでカギとなるのが、組織メンバー全体に組織のパーパス、理念、ミッションなどが浸透し、組織メンバーが一丸となってその実現にむけて情熱を傾けられるような一体感、連帯感、帰属意識を醸成し、維持することだと考えられます。しかし、組織の中において異なる価値観を持つメンバーが混在しているようなケースでは、それには困難が伴うことが予想されます。場合によっては組織が異なる価値観を有するグループ間で分断され、組織内対立が激化してしまうかもしれません。

 

例えば、近年注目されている「両利きの組織」を実現しようとしたとしましょう。この組織では、既存事業の「深堀り」(exploit)と新しい事業機会の「探索」(explore)を同時に追求していこうとすることから、安定志向で確実性、地道な改善などを志向する人々と、リスク追求的で試行錯誤を重視し、クリエイティビティやイノベーションを志向する人々が組織に共存することになります。これらの人々が1つのアイデンティティを共有することで組織としての一体感をつくりあげることはできるでしょうか。

 

この点に関してBesharov (2014)は、組織内において異なる価値観を有する人々が相互作用することから共通したアイデンティティが醸成されていくプロセスに着目し、組織としての一体感を作り出すためには、トップダウンによるパーパスや理念の浸透と、ボトムアップによる異なる価値観をもった人々の相互作用から湧き上がってくるアイデンティティの両方のプロセスが作用することが重要であることを示しました。そして、このようなプロセスがうまくいくかどうかを左右する要因として、マネジャーによる、経営理念や価値観の翻訳と異なる価値観をうまく擦り合わせて統合していくようなプロセスを特定しました。

 

具体的にいうと、Besharovは、環境やサステナビリティ、人々の健康という社会的ミッションを追求する価値観と、企業としての財務的利益を追求する価値観が共存する小売業に対する質的研究を実施し、以下のような発見を得ました。まず、この会社のメンバーは4つのタイプに分類されました。環境や健康といった社会的価値を重視するメンバー、企業利益といった財務価値を重視するメンバー、社会的価値と財務価値の両方を重視するメンバー、どちらにも無関心なメンバーです。それぞれのメンバーがそれぞれの価値観に沿った行動をとるので、組織内対立が顕在化する可能性が十分あったのです。

 

しかし、4つの異なるメンバータイプのうち、両方の価値観を同時に重視するメンバー、とりわけそのようなマネジャーが、異なる価値観を有するメンバー間の接着剤的な役割を果たし、異なる価値観を有していながらも一体感を経験できるようなアイデンティフィケーションを実現することに貢献する素地があることがわかりました。具体的にそのようなマネジャーが何をしたかというと、まずは、(1)両方の価値観をともに追求できるような業務のあり方や商品開発(例、環境にやさしくかつ利益が出せる商品)の工夫を行ったことが挙げられます。

 

つぎに、業務を推進する際に(2)イデオロギーあるいは「あるべき論」の議論に陥らないよう、中立的な議論や行動をするように努めたことが挙げられます。つまり、「あるべき論」の議論をすることで意見対立などに発展させることを抑えつつ、異なる立場のメンバーからの提案や意見の折り合いがうまくつくような解決策を中立的に探っていったということです。しかしその一方で、(3)マネジャーは、業務推進の際に、組織の公式なポリシーを導入することで、イデオロギーもしくは「あるべき論」をシンボリックにルーチン化することを推進したのです。

 

両方の価値観を重視するマネジャーによる上記に挙げたような3つの方法(統合的解決、イデオロギーの消去、イデオロギーのルーチン化)により、異なる価値観を持つメンバー間での一体感、すなわち組織へのアイデンティフィケーションが醸成されたことがBesharovの研究では明らかになりました。なぜ3つの方法によって組織メンバーのアイデンティフィケーションの醸成が実現できたかというと、以下のようなメカニズムが考えられます。

 

まず、統合的解決策の推進により、異なる価値観を持っているメンバーであっても、自分たちの価値観が尊重され生かされていることが実感できたこと、次に、イデオロギーの消去により、自分の価値観と合わない議論を直接耳にしたり議論することの不快感を抑えられたこと、同時に、イデオロギーのルーチン化により、自分の価値観と合う場合にはそれに同意して自分のアイデンティティを確認できたのと同時に、自分と異なる価値観からも影響をうけ、アイデンティティの収束プロセスが見られたことが挙げられます。

 

Besharovの研究は、異なる価値観を同時に重視することができるマネジャーが、いわゆる両利き的なマネジメントあるいはパラドクスを認識、受容し、それを活かすようなマネジメントを行うならば、異なる価値観をもったメンバーが共存するような組織においても、組織全体としての一体感、連帯感、帰属意識を醸成することにつながるのだということを明らかにしたといえましょう。

参考文献

Besharov, M. L. (2014). The relational ecology of identification: How organizational identification emerges when individuals hold divergent values. Academy of Management Journal, 57(5), 1485-1512.

 

 

パーパス経営を成功させる経営指標とはどんなものか

組織マネジメントの観点から見た場合にパーパス経営の成否を握るのは、組織で働く人々がそのパーパスを自分ごととして捉えてその実現に向けたモチベーションを高めることができるか否かだと言えましょう。そして、それが可能となる条件は、企業のパーパスやミッションと、自分が日常やっている仕事とのつながりがクリアになり、自分の担当している仕事が真に重要であると納得でき、その結果として「仕事のやりがい」を感じることができることです。すなわち、企業の存在意義であって究極的な目的であるパーパスもしくはミッションが、組織で働く人々一人ひとりの仕事のやりがいという形でリンクしていることが重要なわけです。

 

Beer, Micheli, & Besharov (2021)は、上記のように企業のミッションと働く個人の仕事のやりがいをつなげる重要な媒体もしくは経路として、経営指標のあり方、経営指標を用いた実践の仕方に着目しました。企業経営を行っていく上で経営指標は必要不可欠です。これまでにも、KPI(重要業績評価指標)やBSC(バランススコアカード)などの経営指標が提唱されてきています。ただし、パーパス経営を成功させるような経営指標のあり方やその運用の仕方と、パーパス経営を失敗させるような経営指標のあり方やその運用の仕方があるだろうということなのです。これに関してBeerらは、実在する企業2社の詳細な質的研究を実施することで、以下のような発見を行いました。

 

まず、Beerらは、経営指標が働く人々の仕事のやりがいを高めるか否かについての3つの要素(経路)を特定しました。1つ目は「実践的経路」で、経営指標の実践のあり方が仕事のやりがいに影響するという経路です。2つ目は「実存的経路」で、経営指標の中身が仕事のやりがいに影響するという経路です。3つ目は「関係的経路」で、経営指標の絡む対人的相互作用が仕事のやりがいに影響するという経路です。これらの3つの経路がうまく働く場合、仕事のやりがいが高まり、これらの経路がうまく働かない場合、仕事のやりがいは高まらないということになります。

 

実践的経路では、経営指標を測定したり報告したりする実際の運用場面において働く人々の負担が大きかったり、実際に測定して提供される指標が、人々の働きぶりを改善することにあまり役に立たなかったりする場合、人々は、自分の仕事が役に立っているのか、うまく進んでいるのかが分からないだけでなく、経営指標の運用が自分の仕事の邪魔になるため、仕事のやりがいを高めることに繋がりません。一方、経営指標の測定や運用が、人々が日常行っている仕事の進捗に関する有意義な情報を提供し、本人の学習や成長を促したり、仕事ぶりを改善することに役立つ場合、本人は、重要かつ価値のある仕事を実践できていることが実感できるので、仕事のやりがいが高まります。

 

実存的経路では、そもそも経営指標で測定している内容が、企業のミッションが実現できているのかどうかに関する情報を提供しない場合、あるいは、組織で働く人々が、企業のミッションの実践に貢献できているのかどうか分からない場合には、人々は企業のミッションの実践度合いが分からないのと、それに対する自分自身の貢献が分からないので、仕事のやりがいが高まりません。一方、経営指標が、企業のミッションが実践できているかどうかの進捗度合いを的確に示すような指標である場合、そして、その進捗に人々が貢献している度合いが示されている場合には、人々は日常で自分が行っている仕事と企業ミッションの実践とのつながりが明確になるので、仕事のやりがいが高まります。

 

関係的経路では、経営指標の作成やその運用において、組織で働く人々からのインプットや対話が許されず、淡々と測定や報告が行われる場合、組織で働く人々は、組織ミッションの実現度合いの測り方や、運用の仕方、結果の解釈などにおいて自分達の意見が反映されないため、自分達は組織からあまり尊重されてないと感じます。よって、仕事のやりがいが高まりません。一方、経営指標の作成や運用において、組織で働く人々の発言機会が多く、彼らの意見が取り入れられ、運用においても、結果を見た上でどうすれば良いのかの人々の対話が活発化したりするならば、組織で働く人々は、仕事を通じて企業ミッションの実現に積極的に関与・参画しているという意識が高まるため、仕事のやりがいが高まります。

 

以上をまとめると、Beerらが明らかにしたのは、パーパス経営、ミッション経営を成功させるための経営指標というのは、単に何を測るか(それも当然大切であるが)だけの問題ではないということです。何を測るかというのは、Beerらによる実存的経路に相当するわけですが、それだけでなく、どう測り、どうそれを使っていくのか(実践的経路)、指標の作成や運用のプロセスで、組織内において積極的な対話や意見交換がなされるか否か(関係的経路)、そしてそれが経営指標や経営そのものの改善に活かさせるかどうかが大事だということなのです。

参考文献

Beer, H. A., Micheli, P., & Besharov, M. L. (2021). Meaning, Mission, and Measurement: How Organizational Performance Measurement Shapes Perceptions of Work as Worthy. Academy of Management Journal. https://doi.org/10.5465/amj.2019.0916