ドラッカーはなぜ経営学者ではないのか

最近「もし高校野球の女子マネージャーが・・・」という著作が流行し、経営学におけるピーター・ドラッカー知名度がますます高まっています。ピーター・ドラッカーは、現代の企業経営やマネジメントに多大な影響を及ぼした経営思想家だといわれます。けれども、ドラッカー経営学者とはいえないと考えられます。では、経営思想家と経営学者はどこが違うのでしょうか。あるいは、経営思想と経営学はどこが違うのでしょうか。


一般的に、経営学(もしくはそれに関連する、戦略論や組織論など)は、学がつくことからわかるように、学問の1つとして考えられています。そして、経営学は、基本的に社会科学という学問を基礎に発展しています。学問もしくは社会科学と思想の大きな違いは、学問については、何が正しいのか、ある命題が正しいか否かを決定するルールが定められているということです。もちろん、この世に絶対的に正しい真実があるわけではありませんが、あくまで、ルールとして正しい、正しくないの基準を定めているということです。専門用語でいえば、妥当性です。だから、経営学の場合、そこで語られる内容は、必ず、正しいか否か、あるいは妥当か否かを、科学的方法論(あるいは社会科学的方法論)にしたがって吟味する必要があるわけです。ですから、経営学者は、コンサルタントや評論家とは異なり、断定的にものを言うことに対して慎重になりがちです。


それに対して、思想のほうは、そのようなルールがありません。よって、特定の思想が広く支持されるか否かは、多くの人が、それを正しいと感じられるかどうかで決まってくいるといえましょう。そういう意味では、思想は宗教に近いかもしれません。たとえば、ドラッカーの場合、彼が指摘したことは、時代の先を見据え、今後、ビジネスやマネジメントの世界で起こっていくだろうと思われる兆候を的確に捉えていたからこそ、多くの人がそれを正しいと思い、その思想に感化されたのだと考えられます。しかし、ドラッカー本人は、厳密な科学的方法論で自分の言説を実証したわけでもありませんし、実証が可能な形に命題化しているわけではありませんから、経営学者とはいえないということです。


ただし、科学的方法論で取り扱うことができないから、重要ないということはまったくありません。たとえば、この世の物質世界を支配する法則性は何かといった問いに答えようとする自然科学については、科学的方法論が最も適合したために人類の発展に寄与したと考えられます。しかし、「人生どう生きるか」という問いや「愛とは何か」というような問いは、科学的方法論を適用しにくく、ゆえに哲学、宗教、文学といった思想や表現によって取り組まれてきたといえましょう。


マネジメントや企業経営という分野は、科学的方法論が適合するのか、適合しないのかは議論が分かれるところでしょう。あるいは、マネジメントや企業経営をさらに細分化するならば、科学的方法論が適合しやすい分野と適合しにくい分野とに分かれるといえるかもしれません。ドラッカー自身は、思想というかたちでマネジメントや企業経営にアプローチしたことにより成功したと考えられます。ドラッカー自身の知名度が証明しているように、彼の言っていることは、直接的に科学的実証をするのは難しいにせよ、ビジネスやマネジメントにとって本当に重要なことが多かったのだと考えられるわけです。だからこそ、これだけ多くの人々からのの支持を得て、ドラッカー信者も多く獲得し、知名度も高いのでしょう。まさにドラッカーは、偉大な経営思想家だったといえるわけです。