仕事観や会社のイメージは日米でどう違うか

わが国でも、日本企業と外資系企業とでは、職場の雰囲気や社員の特徴がかなり違うと感じることがあります。例えば、日本企業で正社員として働いている場合、「明日に突然、解雇されるかもしれない」と考えるのはほぼ非現実的でしょう。それだけ、雇用の安定が社会制度や法規制で守られていると言えましょう。しかし、外資系企業の場合、突然の解雇が起こりうる世界です。そしてそういった危機感が、職場での張りつめた緊張や規律、そして従業員のモチベーションにつながっているように感じます。外資系企業で働く人々は、それをむしろ当たり前のように感じているところもあります。


そもそも、このような雇用慣行の違いは、日本と外国における仕事観や会社イメージの違いを表していると考えられます。そこで、少々感覚的な話になりますが、典型的な比較として、日本とアメリカにおける仕事観や企業観の違いについて記述してみようと思います。


アメリカ人にとって、人生や生活のもっとも基本的なベースとなるコミュニティは「家族」でしょう。家族や親族という人と人とのつながりが、アメリカ人の心の拠り所となり、自分を含めた家族を支えるために、職業を持ち、外で仕事をこなして金銭を得るという考え方です。もちろん、自分の職業や仕事が生きがいとなりうるわけですが、あくまで人と人とのつながりのベースは家族なのです。だから「私はバンカー(銀行家)である。バンカーとして生計を立て、家族を支えている」というような感覚になります。よって、事情によって自分が行う仕事がなくなり「申し訳ないが、明日からの仕事はなくなった」と言われれば、バンカーとして、次の仕事をすぐに探すわけです。ここで「自分はバンカーだ」というアイデンティティは変わらないのがミソです。


それに対し、日本の場合、とりわけ大企業に就職するということは、「会社というコミュニティー、家族の一員になる」ことを意味しています。だからこそ、自分は何者か(バンカーなのか、エンジニアなのか)というアイデンティティなしに、何の仕事をするのか、どの部署に行くのかもわからないまま就職することができるのです。「○○会社の社員である」というのがアイデンティティだからです。これは、人と人とのつながりとしての心の拠り所が、会社にもあり、場合によってはそれが家族よりも強いことを示唆しています。会社は、自分の人生や家族を支えてくれるコミュニティーである。だから、会社が発展するために、社員全員が一丸となって、手分けして仕事をこなす、というのが仕事のイメージです。自分の職業を、バンカーやエンジニアというくくりで捉えないゆえんです。企業で正社員として働く男性社員が、朝速くから夜遅くまで仕事をし、家庭を顧みぬ暇がないとしても、それほど罪悪感が生じないと考えられます。もちろん、妻や子供に申し訳ないと思うでしょうが、会社も人と人とのつながりとしての心の拠り所になっているので、自分自身に対してそれほどのダメージにならないのでしょう。


したがって、日本企業で働く正社員にとっては、会社から解雇されるというのはアイデンティティ崩壊の危機に至るほどの大事件となりうるわけです。家族のようなコミュニティから追放されるということは、心の拠り所から追放されることを意味し、心をズタズタにされかねません。だからこそ、それは日常においてはあってはならないことであるというコンセンサスが社会でできあがっているのでしょう。


先述したように、上記の話はあくまで感覚的かつデフォルメされたイメージはあります。けれども、日米の仕事観、企業観の違いを示す見方ではあると考えられます。