ワーキングマザーになるということ:妊娠した女性社員にとってのアイデンティティの試練

働く人は誰しも、キャリアの節目において、職業上のアイデンティティを変化させる必要性が生じるでしょう。例えば、平社員から管理職になるとき、異なる分野へ移動するとき、海外勤務を命じられた時、転職するとき、独立したときなどです。しかし、私たちが職業上のアイデンティティを変化させる必要に迫られるのは、なにも仕事上の節目だけではありません。仕事ではなくプライベートや家庭上の役割の変化などの影響も受けるのです。Ladge, Clair & Greenberg (2012)は、このようなアイデンティティ変化の例として、働く女性が妊娠したときを挙げます。これはすなわち、私生活において「母」になることを意味するため、私生活のみならず、仕事面でも大きな変化が生じる可能性があるわけです。


それまでバリバリに仕事をこなしてきた女性も、母親になり、子育てという重要な役割を担うようになれば、これまでの仕事のやり方に修正が必要になるかもしれません。そうすると、仕事人として、そして家庭における自分自身のアイデンティティにも修正が求められることになります。Ladgeらは、実際に妊娠した女性ワーカーが、アイデンティティへの試練に対してどのように考え、どのように行動するのかについて、丹念なインタビュー調査を行って、モデルを構築しました。


まず、女性ワーカーにとって「初めての妊娠」というライフイベントは「職業人として自分はどのような人物なのか」「家庭では自分はどんな存在なのか」といったアイデンティティにゆらぎをもたらします。母親になったあと、自分自身のこれらのアイデンティティがどのように変化するのか、確信が持てなくなるのです。したがって、彼女たちは、妊娠中に、子供ができたあとの自分自身の複数のアイデンティティのあり方に関して思いを馳せることになります。「ワーキングマザーとしての自分は、これまでの職業人としての自分と違うのだろうか、違うとすればどう違うのだろうか」「母親という新たな役割が仕事以外で加わることで、私は仕事と家庭の役割をいかにしてこなしていけるのだろうか。仕事人としての自分と、母親としての自分をどう統合したり使い分けたりするのだろうか」「仕事と母親としての育児、家庭などで優先順位をどうすればよいのだろう」というようなことを考えるわけです。


次に、妊娠した女性ワーカーは「子供が生まれた後に、職業人としてそして母親としてなりたい自分とはどんなものか」「これら2つの役割をどう演じ分けたり統合するのか」といったことについてイメージを作っていきます。そして、母親になった後には、職業人としての自分のあり方を変更しなくてはならないといったようなことに気づくようになります。職業人としても、母親としても、これまでの自分とは少し違った自分になる必要があるということを認識するようになります。


そして彼女たちは、職業人としてそして母親として、これまでの自分とは異なるアイデンティティを再構築しなければならないという認識に対して異なる形で反応するようになります。大きく3つの反応の仕方があります。1つ目は、アイデンティティの変化の必要性を否定するという反応です。妊娠という事実に危機感をいだきつつ、でも今までの仕事における自分とこれからの仕事における自分はなんら変化しない、したくないという考えをするわけです。2つ目は、アイデンティティ変化の必要性のことはいったんどこかに置くなど、アイデンティティの変化を延期するというものです。そういうことは(実際に母親になってからとか)後で考えようというわけです。3つ目は、妊娠中であっても、母親になった後の新しいアイデンティティに移行し始めるという反応です。ワーキングマザーになるという事実を受け入れて積極的にそのような状況に適応していこうという態度だといえましょう。


Ladgeらのモデルでは、働く女性が初めての妊娠で経験するアイデンティティへの試練への反応は異なるわけですが、これには、女性ワーカーが働く職場の組織的な文脈や、個人的な文脈が影響すると考えます。組織的文脈としては、会社の公式な制度として、妊娠やワーキングマザーをサポートする仕組みが整っているかどうかの知覚や、同僚などとのインフォーマルなやりとりで感じる、ワーキングマザーに対する職場の肯定的もしくは否定的な態度です。個人的な文脈としては、妊娠そのもの経緯や事情(高齢妊娠など)、女性ワーカー自身の母親がワーキングマザーだったのか専業主婦だったのか、彼女たちの夫や家族のサポートや、母親と仕事を両立することに対する態度や意見などです。



Ladgeらは、このようなモデルを示しながら、企業としても、ワーキングマザーに対するワークライフバランスの支援のみならず、女性社員が初めて妊娠したときから、彼女たちが職業上そして家庭上のアイデンティティ変化への試練をうまく乗り越えられるよう、心理面などでも何らかのサポートを行っていくことの重要性を論じています。

参考文献

Ladge, J. J., Clair, J. A., & Greenberg, D. (2012). Cross-domain identity transition during liminal periods: Constructing multiple selves as professional and mother during pregnancy. Academy of Management Journal, 55(6), 1449-1471.