ワーク・ライフ・バランス実現への壁

わが国では、育児休暇や短時間勤務などの制度導入をはじめとするワーク・ライフ・バランスの施策推進が叫ばれてきましたが、長時間労働問題なども解消にいたらず、現実問題としてはワーク・ライフ・バランスが十分に普及できていないといえます。そこには、政策などが理想としているワーク・ライフ・バランスを実現させる壁があるからだと考えられます。


この問題にかんして、八代(2011)は、わが国では従来からワーク・ライフ・バランスが実現できていなかったのではなく、日本的雇用慣行のなか、別のかたちでワーク・ライフ・バランスが実現できていたのだと指摘します。それは、仕事に専念する夫と就業せず家事・子育てなどに専念する妻とのあいだでの「家族単位でのワーク・ライフ・バランス」です。


そもそも、長期雇用保障・年功昇進・賃金を特徴として持つ日本的雇用慣行は、暗黙のうちに「夫は仕事、妻は家事・子育て」の家庭内役割分担を前提としていたのだと八代は指摘します。したがって、女性にとって、子育て後の継続就業が容易でなかったりするのは、それが日本的雇用慣行(とその暗黙的前提)と基本的に矛盾するからだということになります。政策的に推進しているワーク・ライフ・バランスの実現を困難にしているのは、日本的雇用慣行だということです。


雇用が長期的に保証され、賃金が年々増加する環境を正社員に与える代償として、正社員は慢性的な長時間労働、頻繁な配置転換・転勤といった拘束性の強い就業形態に従事してきました。これは、経営から見れば生産性の向上につながっているといえます。なぜならば、日本的雇用慣行の中では、企業内部で長時間働き、かつさまざまな仕事を経験してきた従業員が豊富におり、これが競争力を生み出す人的資本となります。つまり、日本的雇用慣行のおかげで、日本企業は競争力を支える手厚い人的資本を組織内部に蓄積することが可能だったいうことです。


また、普段から長い労働時間は、企業にとって貴重な人的資本である従業員の「稼働率」をできるだけ高めることに寄与し、かつ不況期に雇用を守るため、残業時間を削減する余地を確保するという機能を果たしてきたのだと八代は指摘します。このようにして、日本企業は、世帯主である男性正社員に集中的な教育投資を行い、長時間労働によって稼働率を高めると同時に、専業主婦を養えるだけの生活費を支払うことによって、暗黙のうちに「家族ぐるみでの雇用」の形態を維持してきたのだといいます。


よって、このような日本的雇用慣行を夫婦がともに働く世代に同じように強いるならば、とりわけ女性は家事・子育てと仕事とのいずれかを選択せざるをえない状況に陥り、女性の就業率が高まれば出生率が低下するという関係に陥ってしまいます。よって、専業主婦つきの男性正社員の働き方を前提とした日本的雇用慣行を見直すことが、女性の就業継続と子育ての両立を図るには有効な手段だと八代は指摘します。厳格な雇用保障はたしかに専業主婦を養う世帯主にとっては何を犠牲にしてでも必要なものですが、一家に2人の稼ぎ手がいる場合には、厳格な雇用保障の見返りとしての慢性的な残業や転勤命令のほうがより大きな犠牲を強いるものになるというわけです。