なぜ海外赴任経験者は会社を辞めやすいのか

グローバル化が急速に進展する中、企業にとって海外赴任社員が果たす役割の重要性は日に日に高まっています。しかし、現地にうまく適応し、現地で活躍してくれる海外派遣人材ほど、赴任期間を終了して帰国したあとに会社を辞めてしまうリスクが高まっていることを示す研究を発表したのが、Kraimer, Shaffer, Harrison & Ren (2012)です。


海外赴任というのは、多くの社員にとってチャレンジングな出来事です。自国とは文化や風習が異なる国に出向いて責任のある仕事をこなさなければならないことで、さまざまな困難があるでしょう。それらを乗り越え、任務を果たし、無事にもと居た場所に戻ってきたわけですから、むしろホッとするのではないでしょうか。しかし、実際は違うようです。では、海外赴任経験者が離職してしまうメカニズムはどのようなものなのでしょうか。


Kraimerらは、海外赴任者のアイデンティティの変化を通じてこの現象を理解しようとします。彼女らによれば、海外赴任者は、国内での仕事から海外での仕事へと新たな役割の変化に遭遇するなかで、国際的アイデンティティを獲得するのだといいます。日本企業でいうならば、かつて「国際畑」という言葉がよく使われていましたが、まさに自分を「国際畑の社員」として同一化するような現象を指します。「自分は海外で活躍できる国際的な社員である」という意識によって自分自身を強く定義づけしようとする国際的アイデンティティは、「だから自分は国内社員とは異なるのであり、国内社員よりも会社にとって重要な役割を果たしてきた(いる)」という認識(自負)につながると考えられます。


国際的アイデンティティは、海外赴任者が現地に適応し、現地に埋め込まれる度合い(embeddedness)が高まるほど強まると考えられます。つまり、現地にあまり溶け込めなかった社員(よってあまり活躍できなかったと思われる社員)は、それほど国際的アイデンティティを強めないのですが、仕事面や生活面において現地でたくさんの人間関係に恵まれ、仕事や任務、生活様式のフィット感も強く、現地での便益も享受できたような社員は、現地でも大いに活躍できたと思われますが、同時に国際的アイデンティティを高めると考えられるわけです。


このような国際的アイデンティティは、海外赴任を終了して帰国した後に消えてしまうものではありません。つまり、いったん海外赴任を経験することで形成された国際的アイデンティティは、帰国した後においても引き続き本人の中で維持されやすいということです。したがって、帰国後に国内の仕事を担当するような場合、戸惑いとともにアイデンティティの緊張感(identity strain)を経験しがちであるとKraimerらは指摘します。つまり、国際的な人材であるというアイデンティティと、すでに海外赴任を終わって今は国内の仕事をしているという現実との間にギャップを感じ、アイデンティティの危機に陥るというわけです。


海外赴任経験者は、自分は国際的な社員であり、それゆえ社内では尊重されてしかるべきだと思っているのに、実際には国内社員とあまり変わらない職務をし、国内社員と変わらない処遇を受けることになった場合、違和感を感じることになります。Kraimerらは、国際的アイデンティティを維持しているからこそ、帰国して国内業務に戻って周りの国内社員と同列に扱われていると感じるときに、自分は会社にとってそれほど大切な人材ではなかったのかという疎外感、あるいは自分の居場所がないような感覚に陥りがちなのだと指摘します。このような疎外感、居場所のなさを感じる海外赴任経験者ほど、国際的なアイデンティティが帰国後のアイデンティティの緊張感につながる度合いが高いと予想されます。


さらにKraimerらは、国際的アイデンティティと国内社員としてのアイデンティティとの齟齬で引き起こされる「アイデンティティの緊張感」は、本人の離職に影響を与えると予測しました。戻ってきた国内の職場は以前となんら変わらないのに、海外赴任をして戻ってくると、その人は別人になっている。だから、以前と同じ職場、以前と似たような仕事、処遇であっても、本人にとっては元いた場所に戻ってきたという安心感ではなく、疎外感や違和感と同時に大きなアイデンティティの矛盾や緊張感を生み出してしまい、それが会社を辞める大きな原因になりうることを示したわけです。


Kraimerらは、海外赴任経験者へのアンケート調査とその後の追跡調査による実証研究によってこれらの仮説を確認しました。企業にとって、海外赴任で活躍してもらった社員に辞められるのは大きな痛手です。研究結果から、そのような事態に陥らぬよう、海外赴任を経験し国際的アイデンティティを形成させた人材には、帰国後も引き続き海外業務関連や国際関連の仕事を担当させるなどアイデンティティの緊迫が起こらないように配慮したり、海外赴任経験者としての本人の自負や誇りを傷つけぬよう国内社員よりも処遇面で優遇したり、なんらかのかたちで本人のアイデンティティや自尊心を維持、向上させるような施策が必要であるのではないかとKraimerらは指摘します。

文献

Kraimer, M. L, Shaffer, M. A., Harrison, D. A., & Ren, H. 2012. No place like home? An identity strain perspective on repatriate turnover. Academy of Management Journal, 55: 399-420.