イチロー選手と行動経済学から学ぶ目標設定法

企業にとっても働く個人にとっても、そして仕事以外の人生においても「目標設定」はもっとも効果的に成果を上げるための手段の一つです。適切な目標を設定できれば、高い成果をあげる可能性が高まります。この点に関して、橋本(2014)は、行動経済学の考え方と、メジャーリーグで活躍し、最高の日本人野球選手といえるイチロー選手の目標の立て方を紹介し、効果的な目標設定へのヒントを提供しています。


橋本によれば、イチロー選手は、打率を上げるよりも、ヒットを1本でも多く打つことを目標に掲げているといいます。そして、これは行動経済学の視点から見ても適切かつ賢い目標設定の方法であることを示唆します。その理由は、イチロー選手自身の「終盤戦に首位打者を狙う駆け引きで、打率を下げないためにわざとベンチに下がる選手にはなりたくない」という言葉に表れています。


仮に「打率」を目標に用いる場合、ある特定の時点での打率は、さらに上がる可能性もあれば、下がる可能性もあります。とりわけ高打率であれば、それを維持するためだけにも常に多くのヒットを打たねばならないために、打率が下がる可能性のほうがやや高いといえましょう。そうなると、打率が下がることを恐れる心理状態に陥り、「終盤戦にわざとベンチに下がる」といったように、安全策に出たり、縮こまったりする可能性が高まります。


行動経済学では「損失回避性」という人間の特徴が明らかにされています。シンプルにいえば、人間は得をすることよりも損失を回避する事に力を注ぎがちであるという特徴です。同じ度合いであれば、得するよりも損するほうがより痛い思いをするからです。したがって、野球選手の例でいえば、打率を目標にする場合、打率は常に上下するため、高打率の選手は、打率が下がることを恐れ、損失を回避したくなるために安全策に出てしまうことになります。安全策に出れば、積極性がなくなり、成果を高めることに集中できず、かえって調子を悪くしてしまう可能性が高まってしまうのです。


しかし、イチロー選手のように「ヒット数」を目標に掲げた場合、この数値は上がるのみで、下がることはありません。打席に立てば立つほどヒットを打つチャンスが増えるわけで、ヒット数を増やすために常に積極的、攻撃的にプレーに臨むことができます。さらに、行動経済学によれば、人間には「上昇選好」というのがあり、物事が上昇していくことを好む傾向があります。打席に入るたびに上昇機会のみが存在する「ヒット数」は、人間の上昇選好にも合致した目標でもあるのです。このように、「ヒット数」という目標は、人間が持つ損失回避性と、それに起因する安全策、消極化といった、調子を崩し成果を下げるメカニズムを作動させることなく、かつ人間の上昇選好にも合致しているため、選手が成果を高めることに集中できるという優れた目標であることを示唆しているのです。


橋本は、このイチロー選手の目標設定の例をひきながら、目標を設定する際には、行動経済学で明らかになっているような人間の思考のクセ(バイアス)をうまく利用もしくは逆手に取った、シンプルな目標を設定することが、成果を高める効果的な方法であることを示唆しているのです。