報酬・昇進・評価の人事経済学3ー人材の努力を最大化する昇進制度

通常の人事管理では、昇進というのは、適材適所を実現するための手段として捉えるのが一般的です。つまり、特定のポジションに最適な人材を企業内外から見つけ出して当てがうということです。しかし、昇進は、報酬の増加を伴う上方向の移動であるという点も忘れてはなりません。つまり、企業で働く従業員から見れば、努力をすることで昇進して報酬が増えるのであれば、これは立派なインセンティブになるのです。とりわけ日本のように、新卒採用で大企業に入社し、よーいドンで同期間の出世競争が始まり、長期間にわたる椅子取りゲームの結果、見事に社長の座を射止めるといった昇進レースは、まさに高額な賞金(報酬)を伴う長期間にわたるトーナメントだとも言えましょう。もっと正確に言えば、最初はマラソンで全員が一斉に競走し、途中で優勝候補のみがあつまった先頭集団のみにおいて、取締役から社長に至る決勝トーナメントが行われるといってもよいのかもしれません。この考え方を応用すれば、企業は昇進の構造を工夫することで、従業員から最大限の努力を引き出すことに成功することができるといえましょう。今回は、ラジアー&ギブス(2017)を参考に、インセンティブとしての昇進構造の仕組みについて考えてみたいと思います。


企業組織は多かれ少なかれピラミッド型の階層構造を成しており、昇進についても上に行くほど先細っていきます。すなわち、トーナメントや椅子取りゲームの様相を呈しているわけで、企業内で働く従業員から見れば、出世競争に勝って昇進を果たすことで報酬が増加します。昇進が従業員の職務成果に基づいて決まるならば、従業員が職務成果を高める努力が最大化するように昇進の仕組みを設計すれば、それによって企業は利益を最大化させることができます。従業員が職務成果を高めるために努力を投じる度合いは、それがどれだけ昇進に結び付き、昇進がどれだけ報酬の増加に結び付くかで決まります。よって、企業が昇進の仕組みを設計する上でのポイントは、従業員の努力、そしてそれに伴う職務成果が昇進に結び付く確率をどれくらいに設定するかと、昇進の際の報酬の増加額をどれくらいにするかです。例えば、大人数のうちごく少数しか昇進できない場合には、努力が昇進に結び付く確率が下がる、すなわち努力が収入増につながる期待値が下がりますので、従業員は積極的に努力をしなくなります。もしこの状況で従業員の努力を引き出したいのであれば、昇進をしたときの報酬の増加額を高めることで、努力が収入増につながる期待値を高めるようにしなければなりません。


前回までで紹介したような個人別の成果主義報酬と比べて、インセンティブとしての昇進を考える際に注意しなければならないのは、昇進においては、社内の同僚との競争が伴うという点です。つまり、昇進するためには同じイスを狙う同僚との競争に勝つ必要があるということです。これが、従業員が投じる努力の種類を複雑にしてしまいます。というのも、同僚よりも相対的に勝っていればよいという仕組みであるならば、同僚の邪魔をすることで同僚に勝とうとする努力への道を生み出してしまうからです。このような努力がなされるならば、それは職務成果の向上にはつならがらず、企業も業績を最大化させることができなくなってしまうのです。また、同僚との出世競争に敗れたことが分かった時点で、モチベーションを失ってしまう従業員も出かねません。分かりやすい例を挙げると、陸上競技の世界選手権の予選を考えてみてください。優勝候補の選手は、予選で全力疾走をしません。他の選手も、予選敗退が決まった時点で力を抜いてしまうでしょう。つまり、予選の段階では全体のパフォーマンスは最大化せず、世界記録が出るというようなことはないのです。順位のみが大切だというような試合では、順位さえ確定してしまったら、絶対的なパフォーマンスはどうでもよいのです。これと同じようなことが昇進競争で起こる可能性があるというわけです。


では、昇進構造において、上記で挙げたように全体として従業員が努力をセーブしたり、出世競争のために同僚の邪魔をするような事態が起こってしまうのを防ぐにはどうすればよいのでしょうか。1つの解決策は、ポジションの空席を埋めるのにすべてを内部昇進で賄わず、外部労働市場からの人材採用で賄う可能性を残しておくことです。これは、内部の従業員同士の相対評価に対して、昇進のための絶対評価を導入するような効果があります。つまり、従業員が努力をセーブしたり同僚の邪魔をすることによって全体の職務成果が上がらないのであれば、絶対基準を満たしていないということで誰も昇進させない。代わりに、外部から、より高い成果を生み出す従業員を新規採用するということです。ただし、外部からの新規採用人材は、企業特殊的人的資本を有していないため、企業特殊的人的資本を有している従業員よりも仕事をして成果を高めるうえでは不利な状況に置かれることは念頭におく必要があるでしょう。そのためには、内部の従業員よりもかなり優秀な人材を外部から獲得するという企業努力が必要でしょう。


最後に、日本的雇用慣行の三種の神器の1つである年功序列について考えてみましょう。年功序列制度は、勤続年数の増加とともに昇進し、昇給する仕組みであると言えます。同時期に入社した従業員がほぼ全員昇進(昇格)していくような意味では特殊な昇進構造といえますが、このような仕組みにも実は優れたインセンティブ効果、すなわち従業員の努力を引き出す効果があることが理論的に導かれます。むしろ、日本企業の過去の成功は、年功序列によって従業員の献身的な努力を引き出すことにあったといっても過言でないかもしれません。自動的に昇進・昇給していくのならインセンティブ効果などないのではないかと思うかもしれませんがそうではありません。


実は、年功序列の下では、入社したての若い社員は、自分の人材価値よりも少ない報酬を受け取って、残りを企業に預金するような仕組みになっているのです。若いうちは昇給していきますが給料の絶対水準が低いので、計算上は、もらっていない報酬分がどんどんと企業内に積み立てられます。それをいつ引き出すのかというと、年齢が高くなって知力、気力、体力が衰え、人材価値が低下していったときです。そのような状態になっても、企業に預けておいた未払い分を取り崩すことで、年功序列の昇給を維持できるのです。つまり、年を取って人材価値が下がっていっても給料は上がり続けるというように、定年まで安定的な昇給を確保することができるのです。これはすなわち、定年まで働くことなく途中で退職すると損をする仕組みになっているのです。解雇やリストラされてはたまりませんので、「辞令一本でどこにでも行く」忠誠心が従業員に植え付けられます。また、企業が倒産などしたりして自分が預けてある貯金がなくなってしまっては身も蓋もありませんので、企業との運命共同体意識が高まります。また、企業が成長して昇進のポジションの数が増えたり、報酬原資が増えれば、自分が将来受け取る報酬も増えることが予想されます。つまり、預けていたお金が増殖して返ってくるということです。ネズミ講を想像してみてください。企業規模が大きくなるということは、階層が増えて昇進の機会が増えることと、自分よりも下位の従業員が増えて、ピラミッドの上層部に行ったときに自分の将来の給料を捻出するための原資が増えることを意味しています。ですので、いわゆる日本の「サラリーマン」は、企業戦士として、企業の発展のためにあくせく働くインセンティブが生じていたと考えられるのです。それが長期的には自分自身の収入を最大化することにつながったからなのです。